『贖罪論』―論点の整理と対話への道(1)

ケン・フォーセット

本稿の目的は、イクトゥス・ラボを通して「贖罪論」を見直していくにあたって、贖罪論の歴史および様々な説で括られる贖罪理解を簡潔に紹介し、贖罪論について対話・議論をしていく上での論点を整理し、何をどのように、そしてどのような動機・理由・方向性で見直していくのかを明確にすることである。前編と後編の二部に分け、前編では贖罪論の概観を示し、後編では現在のキリスト教(特にプロテスタント教会)において優位的な地位を築いている「刑罰代償説」の問題点の指摘と、今後の歩みについて述べたい。

目次

前編
1.壮大な矛盾(なぜ「贖罪論」があるのか?)
▶2.救い、和解、贖罪(そもそも「贖罪論」とは?)
▶3.さまざまな贖罪理解
▶4.「見直し」とは?

後編
▶5.狭義の「贖罪論」
▶6.刑罰代償説の主張
▶7.刑罰代償説の問題点
▶8.今後の歩み

「主は、我等人類の為、また我らの救いの為に下し、しあかして肉体を受けて人となり、苦しみを受け・・・」

1.壮大な矛盾

上はニケア信条の一文だが、キリストが人となり、苦しみを受けて死に、その死によって我々人類を救ってくださったことは、キリスト教徒なら誰もが認めるところであろう。しかし、この信条の宣言には既に人間的に大きなパラドクスが存在する。つまり、「一人の人間の惨めな死」が、どのようにして「人類の救済」を達成したのかということだ。前者と後者は水と油のように混じりがたいものである。

この矛盾はイエスが生きた時代にも、その後の時代においても多くの人々を悩ませてきた。通常「救い」は帝国や王の威光、そして洗練された強靭な軍隊によって敵が打ち負かされ、その華麗な勝利によって平和と繁栄がもたらされることがイメージされるであろう。しかし、イエスはあっけなく帝国の権力に捕らえられ、無残にも十字架で殺された。当然イエスの復活は多くの人の心に希望と信仰を与えたが、復活のイエスが天の軍勢を率いて悪しき権力者を成敗したわけでもなく、イエスを信じる新たな信仰共同体に特別な繁栄を与えたわけでもなかった。事実、イエスの復活後、急速に広がっていった教会は、常に凄惨な迫害を受け続けた。

(皮肉にも、ちょうどニケア信条が制定された頃には「キリスト教徒」となった皇帝のおかげで教会は迫害の被害者から加害者に転じようとしていたのだがそのことについては別の機会に触れることにする。)

その中にあっても、初期のクリスチャンたちはキリストの死が「救い」であったと信じ続けたが(勿論復活があったからだ!)、どのような論理でイエスの死が救いとなり得たのかについて様々な説明がなされていった。

2.救い、和解、贖罪

イエスの「救い」に関する理解で共通していたのは、イエスが「人間の罪の問題を解決したこと」、そして「人間と神との和解を達成した」ことと言えるだろう。新約聖書には次の言葉がある。

神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に追わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。(IIコリント5:18-19)

敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(ローマ5:10-11)

これらの箇所からも、キリストの死がもたらす救いは、人類と神との和解だと理解されていたことが分かる(他にもコロサイ1:20、エペソ2:16も参照)。この「和解」という言葉および概念が、全体の「贖罪論」の意味合いを理解する上で非常に重要になる。

ウィリアム・ティンダル(1494-1536):後の欽定訳の基礎となる英訳聖書を手掛けた。後に英国国王ジェームズ8世の怒りを買い、異端の罪を着せられて処刑される。

16世紀前半に聖書の英語訳に取り組んだウィリアム・ティンダルは、ヘブル語やギリシャ語のニュアンスを維持しつつも英語読者により分かり易い表現を追求し、翻訳の過程でいくつかの造語を生み出した。その中でもキリスト教神学に最も影響を与えたと言えるのが、“atonement”である。Atonementは、at-one-ment、つまり「一つとされる」という意味から、「和解」の訳語として使われた。上記のIIコリント5章とローマ5章の箇所で、日本語では「和解」とされている言葉に、ティンダルはatonementという訳語を当てた(ギリシャ語:καταλλαγῆς)。

このatonementという言葉は、新約聖書の「和解」だけでなく、ユダヤ教の祭りのヨム・キプルに関連するレビ記16:6と16:10にも使われた(新改訳では「贖い」、ヘブル語はכִפֶּ֥ר)。これによって、単に「敵同士が和解する」というだけでなく「罪の解決」という概念がatonementという言葉によって連想されるようになった。

これが「贖罪論」という言葉の正体である。英語ではAtonement Theoryと言われる。日本語の「贖罪」の「贖」という字には、どうしても「支払い」というイメージがついてしまうが、本来の「贖罪論」には「支払い」は必ずしも想定されていない。ドイツ語のSühnopfer、フランス語のExpiationなども「罪の問題をどう解決するか」という意味で「罪の償い」などのニュアンスはあるが、支払いが前提とされているわけではない。

ニケア信条にもあるように、また使徒信条でもイエスの十字架での苦しみと「罪の赦し」に対する信仰を宣言するように、イエスの死が人間の罪の問題を解決し、神と人間との和解を成し遂げ、救いをもたらすということには、キリスト教徒は誰もが一致するところである。問題は、それがどのように起きたかが信条には定義されておらず、キリスト教史においても今の世界のキリスト教においても、様々な異なった見解が見られるのである。

3.さまざまな贖罪理解

キリスト教の歴史を通して論じられてきた贖罪論を一つ一つ細かく挙げればきりがないが、代表的なものをいくつか述べたい。後述するが、日本の教会では、一種の贖罪論のみが教えられ、それが「キリスト教信仰」および「福音」と同一視されている現状があるように思える。しかしキリスト教の2000年の歴史と、その中で生まれた数多くの学派や教派によって、様々な贖罪論が論じられ、信じられてきた。また、唯一正しい贖罪論があって他を全て排除するというものでもなく、イエスの死を通して救い・和解・罪の赦しがどのように成し遂げられたかを様々な比喩やモチーフで表現したものである。

勝利者キリスト説 (Christus Victor)
この説は、長いキリスト教の歴史において最も強く信じられてきた贖罪論だと言われている。キリストは十字架での死により、罪、死、悪魔などの悪の勢力に完全に勝利し、それらの悪に束縛されていた人類を解放したというものある。罪のないキリストが義なる方として死に、また復活することによって悪の力に完全に勝利したとされる。イエスの死が誰かに対しての支払いだったという考えはなく、人類の解放が主目的であった。

Christus Victorは、1931年に出版されたスウェーデン人哲学者のグスターヴ・アウレンの著書の題名で、この説が、エイレナイオス、オリゲネス、アウグスティヌスなど初期教会の教父たちの間で最も強く信じられていた「古典的」な贖罪論だと論じられている。

身代金説 (Ransom Theory)
この説も初期から長らく唱えられてきた贖罪論の一つである。この説では、人類がアダムとエバの罪によって悪魔の虜とされていたため、神が悪魔に「キリストの死」という身代金を支払って人類を解放したとされる。オリゲネスやニュッサのグレゴリオスなどが、イエスの死を悪魔への身代金として解釈する文書を残している。

この説の問題点は、後述する「満足説」を唱えたアンセルムスが述べたように、悪魔自体神への反逆者であるため、人間を自分のものだという主張に正当性はなく、神が彼に対して支払いをする義務もない、などが挙げられる。上述のアウレンは、初期の教父たちの主張に金銭的な意味での「支払い」は含まれていないと論じた。

満足説 (Satisfaction Theory)
11世紀の終わりごろに、カンタベリー主教で「スコラ学」という学派の神学者であったアンセルムスは、人間の罪によって神の義が損なわれ、その義を回復するためにキリストの死が必要だったと説いた。アンセルムスは著書 “Cur Deus Homo”(なぜ神は人間となられたか)の中で、神の義を強調し、人間の背きの罪によって神の義が求める本来の世界のあり方が壊されたため、義人であるイエスが人類に変わって死に、神の義の要求を満足させたと述べた。

アンセルムスの説は、前述の通り、「身代金」説への反駁という側面があった。神が悪魔に対して支払いの義務があるのではなく、人類が神に対して、行ってきた諸々の悪ゆえに、支払いの義務を負っていたというものだ。この説は、のちの「刑罰代償説」に大きな影響を与えるが、アンセルムスの説には父なる神が御子イエスを罰したという考えは一切ない。

道徳感化説 (Moral Influence Theory)
この説は、イエスが十字架で死んだことにより、人類の中に肯定的な変化が生まれるというものである。イエスの教えとイエスの模範的な生き方によって人間が感化され、今までよりも優れた道徳的な生き方ができることによって新たな社会のあり方が開かれるという。

12世紀に、アンセルムスと同じスコラ学のピエール・アベラールが満足説に対抗してこれを説いた。怒りや厳しさや断罪などの視点で神を見るのではなく、愛の視点で見るということを強調し、十字架の死は罪人の心を変え、神に立ち返らせようとする神の愛の表現であると説いた。アベラール以前も、アウグスティヌスなどの教父たちの著書にも道徳感化説を肯定する内容が見られる。

刑罰代償説 (Penal Substitution Theory)
アンセルムスの満足説は、それまでの贖罪論よりも、人間の罪深さが義なる神との関係を破壊したという側面を強調したが、宗教改革者たち、特にジャン・カルヴァンは、キリストの死を神による罰だと説き、人間の罪を「法的」なものとして扱った。神がその義の性質ゆえに罪を見過ごすことができず、罪を犯した人間は本来神によって永遠の罰を受けるべきだったのを、キリストが代わりにその罰を受けて死んでくださったということである。

現在、多くのプロテスタント教会ではこの説が受け入れられているが、カトリック教会では賛否両論があり、東方教会(正教会など)では全く受け入れられていないのが現状だと言えるだろう。日本のプロテスタント教会でも刑罰代償説が「福音」だと考えられる傾向がある。後述するが、刑罰代償説には教義的、論理的、そして倫理的な問題が多々あり、それを「キリスト教」或いは「福音」として語ることに対する反発の声が近年強くなってきている。

スケープゴート説 (Scapegoat Theory)
イエスが共同体の平和を守るためのスケープゴートとして殺されただけでなく、イエスの死はこの世界で社会的スケープゴートとして殺されてきた全ての人々との連帯の死であり、それによってスケープゴート行為の悪が暴かれ、それに気付いた人間がスケープゴートを生む宗教的な社会形成から離れ、イエスの愛と赦しに根付いた新たな社会のあり方を目指すというものである。

1970年代に文化人類学者のルネ・ジラールによって提唱され、神学者のジェームズ・アリソンらによって広められている。人間の暴力性に対し、神が人となり、非暴力を貫きながら殺されたことで人間の暴力を打ち破り、復活によって人間を暴力から離れた平和な社会のあり方へと導くという考えから、「非暴力的贖罪」(non-violent atonement)とも呼ばれる。比較的新しい贖罪の考え方だが、社会に対する倫理的なメッセージゆえに、キリスト教内外から注目を集めている。

他にも様々な説があり、また上記の各説にも数種類に細かく分けられるものもある。前述の通り、ほとんどの教派・教団、或いは信徒個人は、数多くある中から一つを選択して信じるというものではなく、一つを核としながら複数の贖罪論に跨る贖罪理解を有している。

4.「見直し」とは?

前述の通り、日本の教会では「刑罰代償説」が主流となっていて、他の贖罪論が全く視野外であるだけでなく、刑罰代償説自体が「キリスト教」「福音」と同一視される傾向がある。我々が「贖罪論を見直す」と言ったり、また他方から「贖罪論の否定はキリスト教の否定だ」と言われるとき、それは主に刑罰代償説に見られる諸々の主張を巡る議論なのである。キリストの死と復活が救いと罪の赦し、神との和解をもたらしたという広義の「贖罪」を否定するものではない。

刑罰代償説には、イエス・キリストの福音を表現する上で非常に厳しい問題点が多々あり、それについて後編で取り上げたい。

参考資料
近藤勝彦『贖罪論とその底辺―組織神学の根本問題2』2014年、教文館
佐藤優『神学の思考』2015年、平凡社
Andrew Louth & Adam J. Johnson, Five Views on the Extent of the Atonement, 2019, Zondervan Academic
Steven D. Morrison, “7 Theories of the Atonement Summarized”, http://www.sdmorrison.org/7-theories-of-the-atonement-summarized/?fbclid=IwAR3hazmehxaS2uAJx10mOVoHAh0vtvvg9zK94IeW9Gc6XX-FTVqEyhd7e3Q

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