聖餐式の生産的な話 ①

この記事は、Reina・ふみなる(プロフィールが記事の最後にあります)の共同執筆記事です。写真はすべて Reina 撮影のものです。

キリスト教プロテスタントにおける聖餐式について

「聖餐はオープンであるべきかクローズであるべきか」は日本のキリスト教界でしばしば議論となるテーマだ。そしてその焦点は「誰が聖餐にあずかれるのか(誰があずかれないのか)」であることが多い。

 しかしそれらの議論によって、一定の妥協点や合意点、考えるべき方向性が見出されることは稀だ。ほとんど無益な言い争いに終わってしまう。残念でならない。

 ただ聖餐式の話に限らず、結局のところ平行線に終わる議論は実に多い。感情的なぶつかり合いや主張のぶつけ合いに終始してしまい、結論らしい結論が見えてこないのだ(そもそも議論の域に達していないことも多い)。

 それは何故なのか。何が問題なのか。聖餐式を例に考えてみたい。

1.言葉の定義

 聖餐式の議論においては「オープン聖餐」「クローズ聖餐」「フリー聖餐」「フルオープン聖餐」などの言葉が使われるが、それらの定義は各人で一致しているだろうか。

 アメリカの主流派教会群を例に取ると、「オープン聖餐」の対象は「全てのクリスチャン」であり、これは教派にかかわらず全てのクリスチャンが聖餐にあずかることができる、という意味だ。それに対して日本の「オープン聖餐」は同様の意味の他に、未受洗者への配餐、信者でない人への配餐、他宗教の人への配餐なども含んでいる。どこまでを対象とするのか(あるいはしないのか)、そしてその神学的根拠は何なのか、といった確認が、議論の前提として必要になる。が、それらの確認が丁寧になされているとは思えない。

 また「フリー聖餐」は、クローズ聖餐派の人々がオープン聖餐派の人々を揶揄して使うようになった言葉であり、侮蔑的なニュアンスを含んでいる。その言葉を使うことで、議論そのものを侮蔑することになりかねない。そういった言葉の背景、ニュアンスは知っておかねばならない。

2.神学と規則の混同

 なぜオープンなのか、なぜクローズなのか、という理由や根拠を聖書から(神学体系から)読み解く試みがなされる一方で、特に日本基督教団においては、「教団規則がこうだから」という思考停止とも取れる主張が度々なされる。一方が神学から話し、他方が教団規則から話して、議論は深まるだろうか。むしろ噛み合わないまま終わる可能性が高い。

 自分がどの土俵に立っているか、相手がどの土俵に立っているか、それを見極めなければ、有効な議論にならない。

3.「式」としての配慮

 聖餐のオープン/クローズ問題は、「誰が聖餐にあずかれるのか」という点に議論が集中しがちだ。しかしわたしたちはそこから更に踏み込んで、聖餐について考えなければならない。

 聖餐のオープン/クローズの問題はさておき、聖餐には「招き」や「もてなし」といった意味がある。しかもその招きは、人間の招きではなく主の食卓への神からの招きである。

 ふだん、人々を招き、もてなすなら、わたしたちは可能な限りの準備をしたいと思う。せっかくもてなすのだから、できるだけ良いものを揃えて、良い時間にしたいと思う。であるなら、聖餐式にどんなパンを使うか、どんなワイン(ジュース)を使うか、どんな器を使うか、といった点にも注意が向くのではないだろうか。

 たとえばある教会は、近所のスーパーで買える安価な食パンとブドウジュースを聖餐に使う。それ自体が即座に問題になるわけではない。けれどそのパンはどこで、どのような方法で生産されたのだろうか。そのジュースはどのような過程を経てスーパーの棚に並んだのだろうか。そこに不当に搾取された労働や、過剰に使われた農薬、フェアでないトレードなどはなかっただろうか。

 「すべての食物はきよい」という聖書の言葉を使って、正当化することができるかもしれない。しかし搾取された労働、フェアでないトレードはそれ自体が社会の構造による罪である。

 わたしたちは、自分の罪を悔い改め、救われたことに感謝の気持ちをもって聖餐にあずかるのだが、そこでどのくらい、いただくパンやワイン(ジュース)の背景にある抑圧的な労働環境や不平等なトレード等に思いを馳せることができているだろうか。

 あるいは、思いを馳せながらもなお、フェアでない過程を経た可能性の高いパンやワインを聖餐に使うとしたら、それらの抑圧構造を肯定し、下支えすることにもなってしまう。それは個人的には罪ではないかもしれない。が、社会構造化された罪を肯定するという意味で、わたしたちの全員の罪となるのではないだろうか。(ただし、食料自給率が先進国の中でもかなり低い日本では、食品の購入に選択の余地が少ないのも事実であり、フェアトレードの食品を手に入れにくい場合もあるのだが)。

 もちろん、パンもワインもただの物質だ。プロテスタントは、そのものに神性が宿るわけではないと考える。けれど何を使っても自由だ、何でもいいんだ、という考え方は、上述のような社会に対する無関心、搾取や不公正に対する無関心につながり、結果的にそれらを肯定することになってしまう。

 聖餐に誰があずかるか、あずかれないかではない視点を今回はひとつ提案してみた。聖餐に対する生産的なアプローチによって、このような種々の問題について議論し、皆で合意に到達していきたいものだ。

 日本のキリスト教界がここに掲げたいくつかの点に目を向け、建設的な議論を持ち、より良く発展していくことを願ってやまない。

ふみなる / fuminaru kawashima @fumiwriter
看護師(精神/障害)/ライター/noteでキリスト教の現場からおとどけ/Ministry(キリスト新聞社)に寄稿/ツイキャス対談/いろいろな宗教の方と繋がりたい/パクチーが苦手
note.mu/fuminaru

4 Comments

アバター ぼやき牧師

玲奈さん、ふみなるさん、共同執筆ありがとうございます。

聖餐は「招き」であり「もてなし」である、という理解が、既に一方に肩入れした(私個人としては味方してもらってるようでありがたいのですが)解釈であろうと思います。
クローズ派だったら、聖餐は「イエスの死の意味を理解した者たちによる応答と、信徒として生きる義務の約束」といったような内容になるのではないでしょうか。
この理解の違いも、両者の深い溝の原因になっています。しかし、どちらもそれなりに間違っているとは言い難いのですよね。

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アバター UenoReina

さっそくのコメント感謝です!聖餐は「招き」という部分は、オープン/クローズ両方の聖餐理解にも共通ではないでしょうか。教団式文の口語版に試用版にもやはり「招き」という言葉(「わたしたちを招いて」「主は信じる者たちを招かれ」)は入ってますし、礼拝そのものが神様からの招きで始まり、その礼拝のうちにある聖餐なので、「招き」を否定できる人はいないのではないでしょうか…。
「もてなし」に関しては、ある一方の方は、そういう要素はないと考えるかもしれませんね。
今後少しずつ書いていきますが、「式文」に出てくる言葉にその聖餐理解が表れていますよね。式文を分析しながら、どこで相違点がありどこで共通点があるのか見てみたいと思います。ちなみにわたしは海外の教会の英語の式文も参考にしながら、自分で作成した式文を使っていました。

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アバター くま

興味深く読みました。
聖餐理解の相違は、そもそも礼拝は「神が人をもてなす」ものなのか「人が神に捧げる」ものなのか、という理解にもよるのかもしれないなと思います。(二元論を推奨するものではありませんが)
「捧げる」という、いわば宗教行為の原点のような概念に、私が多くのクリスチャンを見るときに感じる違和感の根本がある気がしています。

ホセアの言葉を借りるならば
「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく
神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(6節6節)
わけですから、私は「互いに愛し合うことを目指している神の家族が共に食事をする」くらいのシンプルさでいいのではないかなぁと思っています。
(イエスが徴税人との食事を擁護する際にホセア書を引用したことが、聖餐式の理解につながりうるものかどうかは、分かりません。素人意見ですみません。)

教団の事情などはよくわかりませんが、クローズド&オープンの神学的根拠の紹介にも期待します。

後半の生産過程の話は特に考えたことなかったですね。勉強になります。
ただ問題が根深すぎて(&自分がそれにどっぷりつかりすぎて)「適切な条件を整えようと思うと、果てしなく続きそうだな」と思ったのも正直な感想です。

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アバター UenoReina

くまさん、さっそくコメントありがとうございます!
礼拝(プロテスタントの場合)は、「神が」と「人が」の掛け合いになってますよね。おっしゃるとおり二元論ではなく、両方だと思います。「捧げる」ってこれも日本語特有の意味がある日本的礼拝用語ですよね。祈りも日本語だとよく「この祈りをお捧げします」といいますが、私は、自分の祈りって奉納物のように捧げるものじゃないと思うので、アメリカから帰ってきてから意図的に「捧げます」を言わないようにすることにしました。主イエスの名によって「祈ります」と述べています。礼拝も、なるべく「捧げる」じゃなくて「礼拝に参加する」とかそういう言い方をしてます〜

そうですね〜、個人一人だけで聖餐を理解しようとする場合には、そのくらいシンプルでもぜんぜんオッケーだと思います。が、キリスト教って人と神との関係性が大事にされる宗教という側面があることを考えると、これまで大切にしてきたこと、今大事にしたいこと、これから見つめていきたいことの総合は、なかなかそこまでシンプルにならないかもしれないと思いました。でも、シンプルじゃないからこそ、わたしは面白いと思ってます。

後半の提起については、100%達成するのは難しいけど、考えていきたい課題ですよね。少なくとも、考えることはできるかな、と。

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