聖餐式の生産的な話 ②

この記事は、Reina・ふみなる(プロフィールが記事の最後にあります)の共同執筆記事です。写真はUnslpashより。

はじめに

 今回はいくつかの代表的な聖餐理解に触れることで、聖餐について考えを深めていきたい。

 聖餐理解は教派によって微妙に(あるいは大きく)異なる。一つの教会で長く信仰生活を送る限り、その差異を意識する機会はあまりない。しかし様々な教派の聖餐理解を知り、その歴史に触れることで、わたしたちの聖餐式はさらに豊かなものとなるはずだ。
 ともすれば惰性的になりかねない聖餐式が、新鮮な、恵みと感謝に満ちた時間となることを願ってやまない。

 今回はカトリック教会の聖体拝領(聖餐)理解と、プロテスタントの代表的な3人の宗教改革者たちの聖餐理解について、その概要に触れていくことにする。

カトリック教会の聖体拝領

 カトリック教会は「聖餐」でなく「聖体拝領」と言う。(様々な用語においてプロテスタントと大きく異なる点に注意したい。)
 カトリック信者は実体変化説(化体説)という教理のもと、「パンとぶどう酒は実際にキリストの血と体となる」と理解する。つまり聖体/感謝の祭儀(プロテスタントの聖餐式)において用いられるパンとぶどう酒は、ただの物質ではない。文字通り、キリストの血と体となるのだ(聖変化 Transsubstatiation と言う)。キリストの実体がそこに現れる。

 カトリック教会のミサはこの聖体拝領が心臓部分となる。プロテスタントの礼拝が聖餐と説教をセットで心臓部分とする点と比較して、カトリック教会がどれだけ聖体拝領に重きを置いているかが分かる。

 ふみなるはカトリック教会のミサに何度か参加したことがある。聖体拝領はミサ終盤に位置するが、一番のクライマックスであり、信者たちの祈りが最も熱く高められる時間のように感じられた。パンとぶどう酒をあくまで物質と見るプロテスタントとどこか違う、畏れかしこみつつ聖餐にあずかる信者たちの信仰心に、正直羨ましさを覚えたものだ。

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プロテスタントの3人の宗教改革者の聖餐理解

① ルター
 ルターは「共在説」を唱えた。この考え方は3人の中で最もカトリック教会に近い。

 共在説によると、パンとぶどう酒そのものが実体変化するのでなく、それらはあくまで物質のままだ。しかしその物質と共に、神が実在する(共在する)。故にその物質を口にすることには、霊的な意味が込められる。

② ツヴィングリ
 ツヴィングリの「象徴説/想起説」はカトリック教会の実体変化説を完全に退ける。日本の多くのプロテスタント教会の聖餐理解はこれに近いだろう。

 象徴説によると、パンとぶどう酒はあくまで物質であり、その中にも周辺にも神の実体はない。聖餐式を通してキリストの死と復活を「想い起こすこと」を目的としているのだ。
 実体変化説や共在説に見られる神秘性を否定し、あくまで合理的・現実的に考えるのが特徴と言える。

③ カルヴァン
 カルヴァンの「聖霊による実在説」は、ルターとツヴィングリの中間的な位置づけだ。

 この説によると、聖餐に使われるパンとぶどう酒は物質のままだ。しかし信者は聖霊によって(神の右の座まで)高められ、キリストの血と肉にあずかることができる。共在説と想起説の「いいとこどり」と言えるかもしれない。

歴史に学ぶ重要性

 以上、基本の部分をなぞるような解説だが、このように小さくない差異がプロテスタントのそもそもの出発点にあったことは注意したい。現在の日本での議論と扱うポイントが異なるが、聖餐式についての議論は、16世紀から延々と続いてきたのである。

 また当時のキリスト教界と現代日本のキリスト教界の大きな違いとして、地域コミュニティを構成するキリスト教信者の割合を挙げたい。ルターたちの時代は地域の全員が信者だったため、昨今議論される「未信者も聖餐にあずかることができるか」といった問題は存在しなかった(故に神学的課題ともならなかった)。
 しかし現代日本は信者の割合が少なく、信者でない人たちが教会を訪れる機会も多々ある。そのため「この人は聖餐にあずかることができるのか」と考える必要性が生じたのだ。この論点は、キリスト教信者がマジョリティではない地域特有のものかもしれない。

 聖餐について考える際は、このように歴史を振り返り、どのような理解と歩みがあったか、何がどう変遷してきたかを知らねばならない。それを知ることで、自分自身の聖餐理解についての偏りが明らかになり、有益な議論につながっていくだろう。

ふみなるの参考資料URL
http://www.shukugawa.catholic.ne.jp/sp/catechism/article/report/35-2013.06-07.html

ふみなる / fuminaru kawashima @fumiwriter
看護師(精神/障害)/ライター/noteでキリスト教の現場からおとどけ/Ministry(キリスト新聞社)に寄稿/ツイキャス対談/いろいろな宗教の方と繋がりたい/パクチーが苦手
note.mu/fuminaru

2 Comments

ぼやき牧師 ぼやき牧師

コンパクトにカトリックとプロテスタントの聖餐理解の違いがまとめられていて、スッと頭に入ってきました。また、プロテスタントの代表的な3つの聖餐論もわかりやすかったので感謝しています。
私の教会はプロテスタント(日本基督教団)ですが、聖餐式については教団の多数派とは異なる路線を歩んでいるため、逆に聖餐論については自由に考えることができるのかなと思っています。もっとも信徒の皆さんと神学的に詳細な論議をしているわけではありませんが。
今回の記事に即して言えば、案外「共在説」に近い感覚で聖餐式を実施しているなと感じました。式文を作成した時にはそんな思いで書きましたし、司式している時もそうです。

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アバター くま

表面的には同じ形式を取っていても、理解はそれぞれで異なる、ということもあるのでしょうね。改めて考える良い機会になりました。

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