オンライン読書会 絹川久子『ジェンダーの視点で読む聖書』第3回報告

神の豊かなイメージ(ホセア書11・1-11)

 主の祈りに代表されるようにキリスト教では神は「父」のイメージでとらえられてきた歴史がありますが、本章では果たして聖書の神に対するイメージはそれだけなのか?ということをジェンダーの視点から再検討しています。実は聖書テキストの中には神が母や女性として表現されている個所が存在します。従来(また現在の最新の日本)の翻訳では、本書が取り上げているホセア書の箇所からは女性的なイメージを読み取ることは難しいと言えるでしょう。絹川はヘレン・シュンゲル=シュトラウマンの翻訳を手掛かりに、神の女性的なイメージを読み取り、むしろその方が聖書テキストの意味をすんなりと読み取ることができるのだと述べます。

 読書会では絹川が引用している翻訳の妥当性に関しても少しヘブライ語原典から検討しましたが、ここでは割愛して、特に印象的な個所だけ見ていくことにしましょう。

3節 それでもエフライムに乳を与えたのは

4節 わたしは、彼らにとって、人の乳飲み子を自分の胸に抱きあげる者のようであった。

8節 私のは甚だしく燃えたぎっている。

9節 なぜならわたしはほかならぬ神であり、ではないからだ。

 本章の冒頭では、フィリピン人の女性と日本人の男性の間に生まれたしんいち君の朝日新聞への投稿記事が紹介されています。父親の戸籍に登録されていない、いわゆる「私生児」である彼の父親に対するイメージはどうだったか?、という問いかけがなされます。私自身も未婚の母親の子どもだったので、共感してこの投稿記事を読みました。私自身もそうなのですが、父親というイメージに必ずしも肯定的なイメージを抱いていない人も存在します。絹川は父親というイメージが神を表現する一つの優れたイメージであることは評価しつつも、それだけで多様な神の側面を表現しきれるのか?を問います。絹川が端的に述べているように、この章の目的は聖書における「イメージ」と「メタファー」を従来の固定概念から解放すること、「つながりの大切さ」を再認識することです(34頁以下)。

感想など

 ディスカッションでは、感想や意見がたくさん出されましたが、本書に残る課題として「男女という二項対立」への批判がありました。『ジェンダーの視点で読む聖書』が出版されたのは2002年で、約20年の年月が経過しています。日本の教会の現実が絹川の問題提起に追いついているとはいい難い状況かもしれませんが、一方で社会では男女以外の性の多様性への取り組みは進み続けています。今日、男女以外の視点からも聖書を再検討していく必要性が大切になってくると感じされられました。

e.p.s.

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