オンライン読書会 絹川久子『ジェンダーの視点で読む聖書』 p54-66報告

マルタもマリアも―隠された真実(ルカ10:38-42)

1. ディアコニアの真の意味

7月13日に行った読書会の報告です。マルタとマリアがイエスを家に招き、そこで「もてなし」に奔走するマルタが、イエスの足下で話を聞くマリアが自分を手伝ってくれるようイエスの頼むと、イエスはマリアの姿勢を称賛する話です。

著者は、キリスト教内でこの話がこれまで語られ、理解されてきた読み方を以下のように述べています

・二人の女性を対照的な存在として理解
・家主のマルタは働き者だが家事に忙殺されイエスの前で取り乱してしまう
・マリアは物静かでイエスの足下に座って深い関心をもってイエスの話を聞く
・マリアの振る舞いが模範的・理想的

日本社会の伝統の中で多くの女性は主婦・母として家事や育児を担い、夫や父親を支えてきましたし、教会の中でも「女性の役割」を担ってきました(礼拝前後の掃除やお茶の用意など)。そのような古来からの家父長制の男女観を補強するためにこの聖書のエピソードが使われてきたのは間違いないでしょう。

学歴偏重社会で子供の塾や習い事の費用のためにパートの仕事をする女性も増加し、また社会との関りを求めて生涯学習、ボランティア、平和活動、環境問題などに時間を用いる女性も今は数多くいます。そのような状況の中でマルタ的な生き方になっていることが多いですが、がそうしないと自分の生きがいのための活動をするのは不可能だと著者は言っています。

また男性であれ女性であれ、家庭や子供の有無に関係なく、生きていくうえで家事やもてなしを行うのは当然です。

意味のない比較

マルタとマリアの話は、一方が家事に忙殺、もう一方がより大切なものを選んだという描き方がよくされます。家事や育児に奔走している女性に対する反省と教訓を促すように受け取られ、また男性も「企業戦士」として忙しい生活を反省し、教会の礼拝を守ること、聖書を読むことの大切さが強調されてきました。

マルタ「主よ。わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何とも思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(10:40)

イエス「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

「マリアは良い方を選んだ」Μαριὰμ γὰρ τὴν ἀγαθὴν μερίδα ἐξελέξατο ἥτις

著者は「良い方」と訳されるような比較を意味する表現はここにはないと述べています。にもかかわらず、二人の振る舞いが比較可能なような印象付けがされています。

良い「ほう」のギリシャ語はμερίδα ですが、新約聖書の他の箇所では「相続分」などと訳されます。比較の意味がここに全くないとは言えないですが、二人の振る舞いを善悪で簡単に分けて「こちらが良い、こちらが悪い」と断じられるようなものではないのは確かでしょう。

著者はマリアの姿にも目を向けます。彼女がイエスの話に聞き入っていたのは、逃してはならない「良い」ことであり、キリスト者にとって神の言葉はいのちを支える根源的なものだと述べています。それだけ大切なものは、他と比較すること自体がおかしいことです。なのに、それと比較してマルタの行為が「無意味」かのように語られることが多いです。

多くのクリスチャンはこの話で反省を迫られ、落胆させられますが、それでも家事や教会の仕事の負担から解放されません。

福音書著者のルカには、家事などの作業よりも御言葉の奉仕を促す意図があった可能性がここで触れられています。「神の言葉に閊える」ことは当時の教会にとって重要な職務でした。P58

ディアコニアとは

イエスの死後、教会内で「食事の世話」と「祈りと御言葉の奉仕」が区別され、別々の弟子グループが担当するようになりました(使徒6:1-7)。「世話」と「奉仕」は同じ言葉(ディアコネイン、ディアコニア)が使われていますが、邦訳では別々の言葉になっています。食糧の分配でギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちが軽んじられているという苦情があったのがきっかけで、神の」ディアコニア」を分担するようになりました。。

「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をする(ディアコネイン)のは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から"霊"と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕(ディアコニア)に専念することにします。」

神の言葉が大切なのは勿論ですが、「食卓のディアコニア」が聖書で軽視されているわけでは全くありません。著者は、おそらく五千人/四千人の給食を暗示していると思いますが、食事がすべての人に行きわたることはイエスの志したところだと述べます。また食事のディアコニアを行う人の条件として「"霊"と知恵に満ちた評判の良い人」が求められました。食事のディアコニアは、イエスと共に守った晩餐を記念するものでしたから、神の言葉がないがしろにされては成立しません。しかし神の言葉への奉仕がすべてであり、他は軽視されても良いというものではありません。P60

2 同労者マリアとマルタ

ルカ10章のマルタのもてなしの表現にも「ディアコニア」が使われています。当時は家の教会が一般的だったようで(参照;ローマ16:3-5、Iコリント16:19、コロサイ4:15)。マルタも家を解放して教会を主催していた可能性が高いと著者は述べています。そう考えると、マルタも「"霊"と知恵に満ちた評判の良い人」だったということになります。

この場において、マルタが自分の妹に対する不満をイエスに明かしたということは、イエスと非常に近しい関係だったことの証でしょう(p61)。たしかに、イエスはその中でマリアを庇う言葉を語りましたが、このように親しい間柄で起きたやりとりを一般化させて教会のあり方や自分たちの信仰生活全般に広げて解釈するのは、行き過ぎてしまう危険性もあるでしょう。

同労者マリア

ルカは。この話の初めでマリアを「姉妹」として紹介しています。パウロが同労者を「兄弟」と呼んだのと(Iコリント1:1のソステネなど)同様の意味で、マリアをマルタの家の教会主催の同労者と見做す人もいます。よってマリアもイエスの弟子だった可能性が高いです。マルタとマリアは同じ家に住み、ペアで神のディアコニアに励んでいたと考えられます。他にもペアで奉仕していた例は聖書にたくさん出てきます(プリスカとアキラなど)。

写本によっては「マリアは主の足もとに座って」が「マリアもまた主の足もとに座って」としているものもあるようです。写本事情を確認すると、ἣ καὶかκαὶの違いですが、どちらにせよ「マリアも」という訳は適切かもしれませn。文字通りイエスの足もとに座っていたというよりは、イエスの弟子だったということを表現している可能性もあります。パウロもガマリエルの門下で学んだことを「足もとで」と表現しています(使徒22:3)。

イエスの生涯から分かることは、言葉には実際の生き様が求められるということです。私たちが日々行う振舞いは、神の言葉そのものに命を与える価値を意味と可能性を持っています。マルタがしていたことも神の言葉の受肉であると理解すれば、私たちの日々の行為が神の目にいかに大切であるかが分かるででしょう。神が小さなことにも目を留められる方なら、私たちはマルタでもありマリアでもあるべきであって、どちらか選ぶのは不可能です。(P64)

ルカの編集意図

ルカの編集の意図によって未来の同労者であった二人の姉妹の間に緊張感を生み出してしまった、と著者は推測しています。本来協力関係にあった二人がライバルのように修正された、「言葉のディアコニア」と「食卓のディアコニア」とを分離させて前者の優位性をルカは確立しているという考えです。。

「しかし、必要なことはただ一つだけである」写本の乱れが激しく、さまざまな読み方があったようです(くわしくは『聖書のフェミニズム117-118』)。確かに「必要なものは僅かです」や「必要なものは僅かです、いや一つです」などの異本が確認できます。新共同訳は「ただ一つ」を省略していますが、それでも「良い方を選んだ」という訳を選んでいますが、そのような比較で二人の関係を悪化させたのは大変残念だ、と著者は言っています。

ルカの執筆の動機や教会で直面していた問題を知ること、また書いたことの背景に隠れている伝承を追跡することも重要あると著者は言っています。本来のイエスのと女性たちの間に成立していた関係が息づいている可能性があるからです。また二人の女性のあり方を比較して優劣をつける二元論的な発想に戻づく解釈は極めてルカ的だと結論付けられる、と著者は述べています。

最後に、ディアコニアは神の言葉に生きるすべての信仰的あり方を包含するものだと言ってこの部分を締めています。(P66)

背景に隠れている伝承を追跡したり教会内の問題を知ることを目指すならば、もっと緻密な聖書学的根拠の確立が求められるのではないでしょうか。現代訳を批評するにしても、例えばどの異本が最も原本に近いかの考察や、当時の教会に実際どのような問題があったか、何を根拠にそう考えるか、などをもっと裏付けて主張すれば著者の主張はさらに強まると思いました。現代の読者が、過去の著者の意図や背景を正確に判別するのは非常に難しいことです。それを基にキリスト教内で社会的・倫理的な主張をしていくなら、尚更丁寧な学術が求められるのではないでしょうか。

また「良い方」と比較を示す表現は元々の聖書になく現代訳の産物だと言いながら、比較して優劣をつけるのがルカ的だと言うのは矛盾しているように感じます。

著者の主張には納得させられるものが多く、特に現代の教会やクリスチャンの生活に当てはめて語られるマルタとマルコの話の扱いに疑問を投げかけ、この話を批判的に見ていくことには大きな意義を感じます。ただし、その主張をさらに強め、家父長制の支配的な解釈・応用を一掃するためには、聖書学の面でもさらに精確性が求められるでしょうし、その辺りにもう少し踏み込んでも良かったと思う部分もありました。

ケン・フォーセット

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