【あとがき・・・依存症と「罪」の関係に寄せて】by ぼやき牧師(富田正樹)
ルカによる福音書15章11-32節に、よく知られた「放蕩息子」のたとえがあります。父の財産を生前に分与することを要求し、その財産をすべてお金に換えて放蕩の限りを尽くして、自らの人生を破壊してしまった息子(弟)を、父は優しく迎え、帰ってきたことを喜びます。
もちろん、このように自分の人生をボロボロにしてしまう人間を、神が無条件に愛し、迎え入れてくださることは感謝すべきことなのです。しかし、このような人間の放蕩を、本人の「罪」のせいである、この人がこうなってしまったのは本人の「自業自得」である。「にもかかわらず」神はこのような人をも赦し、受け入れたもう、といった理解でとどまっているのではないでしょうか。
そのような「罪」理解にとどまっているために、多くのキリスト教会が、「神には感謝しながらも、『放蕩』した当事者は受け入れられない」という現状のままで、当事者に対して教会の扉を閉じたままでいるのではないでしょうか。
しかしここで、この「放蕩息子/放蕩娘」が、ここまで放蕩してしまったのは、なんらかの「症状」のせいだったのではないかと考えることはできないでしょうか。すべてを当事者個人の「自己責任」に基づく「罪」とし、ただ神の「赦し」を説くだけで、本当に当事者の救いになるのでしょうか。そして、これから先も同じような苦しみを負う人を少しでも減らしてゆくことにつながるのでしょうか。
そのような問題意識を駆り立てられ、ここにふみなるさんの文章を転載させていただきました。ふみなるさんの原文のリンク「依存症と『罪』の関係はこちらです。ふみなるさんのnoteには、他にも多くの刺激的な文章が投稿されていますので、どうぞお読みください。
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