依存症と「罪」の関係 by ふみなる

 人間の様々な逸脱行動の背後に、依存症が存在すると判明してきています。

 アルコール依存症や薬物依存症、性依存症や病的窃盗など、その種類は様々です。そして今後も増えていくと思われます(コンピューターゲームの開発によってゲーム依存症が生まれたように)。今まで認識されてこなかった依存症が発見されることもあるかもしれません。

 すると同時に、次のような可能性も生まれます。
 キリスト教的に「罪」とされてきた諸々が、実は本人の純粋な「悪意」とか「原罪」とかによって行われるものでなく、疾患の「症状」として引き起こされるもの(本人のコントロールの及ばないもの)である可能性です。
 その場合、その「罪」の行いは、神への意図的なの反逆なのでしょうか?
 そして意図的でないなら、それは(刑法による犯罪であったとしても)キリスト教的「罪」とイコールなのでしょうか?

 改めて、「罪」とは何なのでしょう。

 もちろん理由や原因が何であれ、犯してしまった罪に対する処罰や贖罪、(被害者がいるなら)補償は必要です。キリスト教的「許します」精神で済ませてはいけません(そういうケースがキリスト教界において散見されるのは残念でなりません)。
 けれど、その原因を個人的欲望や悪意と位置付けて、「悔い改め」や「改心」といった個人の改善努力(=精神論)だけに帰しても、依存症であれば解決しません。むしろ同じことを延々と繰り返し、しかもエスカレートしていくでしょう。

 疾患の症状であって本人のコントロールの及ばないものであるならば、本人はその行為によって満足するわけではありませんから(安心はするでしょうけれど)、結局は苦しいはずです。(被害者を作る種類のものならば)被害者も増え続けます。不幸の連鎖でしかありません。

 キリスト教界はそのあたりの認識をアップデートしなければならない、とわたしは思います。

 ある教会に、万引きがやめられないクリスチャンがいました(冒頭に挙げた病的窃盗です)。
 本人も自分の行動が恐ろしく、買い物どころか外出もままならない状態に陥っていました。しかし責められるのが怖くて、教会の人間に打ち明けることはできませんでした(到底理解してもらえると思えなかったのです)。
 最終的に病院で診断されるまで、それが精神疾患の一つであり、治療の対象であると分かりませんでした。
 教会にそういった知識や理解があり、オープンに話し合える環境だったならば、もっと早く治療に繋げられたかもしれません。そう思うと残念でならないケースです。

 ある人の行為だけを見て簡単にジャッジする前に、そういった可能性について考えてみても損はないのではないかな、とわたしは思います。

ふみなる / fuminaru kawashima @fumiwriter
看護師(精神/障害)/ライター/noteでキリスト教の現場からおとどけ/Ministry(キリスト新聞社)に寄稿/ツイキャス対談/いろいろな宗教の方と繋がりたい/パクチーが苦手
note.mu/fuminaru

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