このイクトゥス・ラボでは、「贖罪論」というものを見直し、それに替わるものを提示するための学びの構想を練り始めています。
贖罪論は復活論と並んで、キリスト教の根幹をなしており、それなしにはキリスト教というものが成り立たないとまで言われるような教義です。確かに、「イエスが十字架につけられて殺されたのも神の意志であり、その死によって人間の罪は贖われ、人間は罪の力から解放された」というのは、キリスト教の中心的な教えであるとされています。これを見直すというのは冒涜であり、異端であるという指摘が生じるのも理解できます。
しかし、この贖罪論にはいくつかの問題点があります。
まず、「イエスは父なる神の怒りを人間に代わって受けてくださることによって、人間が赦された」という考え方ですが、これは「父なる神の怒り」を手付かずのまま肯定してしまっています。
「神は人間に恐ろしい罰を求める父である」という神像が、実は現在も多くの家庭内暴力・虐待を受ける人を苦しめ続けています。そして、十字架で痛めつけられる「父の子」イエスの姿に自分を重ね合わせ、この虐待以外に父の怒りを晴らす方法は無いということを痛感させられ、逃げ場がなくなるのです。
この教義によって苦しみが倍増させられる人々のことを、この教義を正当化する人たちは配慮してくれません。「だってそれが正しいんだからしょうがないじゃないか。それはどこかで受け止め間違っているんだよ」という訳です。しかし、ある人を痛めつけ、苦しめるような解釈を、そのまま見直さず、放置していて本当にいいのでしょうか。
次に、この贖罪論からは、「イエスが私たちを守るために命を捨ててくださった。イエスの私があるから、私たちは生きていられる」という発想が生まれます。こういった形で犠牲の死を美化することは、古今東西の宗教、あるいは一見非宗教的な社会現象の中でもよく起こってきたことです。
しかし、これによって社会がスケープゴートを生み出し、痛めつけることで、その社会の安寧を図るというシステムを肯定し、暴力の温存に加担してきたという面があるのではないでしょうか。
また、旧日本軍の特攻隊のように、実際には失政のために犠牲者となった人々の死を美化することで、失政の責任を追求せず、むしろ「新たに命を捨てる者、出よ」と、犠牲を奨励するような危険な体制を作ることに繋がりはしないでしょうか。
さらに、贖罪論を根拠にして、「私たちは既にイエスによって罪を赦されているのだから、今私が犯した罪も赦されている」と居直ったり、差別や暴力の被害者に対して、「あなたもあの人を赦しなさい」、「あなたも私を赦しなさい」と要求するような事象があちこちで起こっています。
端的に言って、これはキリスト教の教理・教義を利用した、差別・虐待の正当化であり強化に他なりません。「赦し」という教えを、罪の容認、加害者への加担・擁護、そして被害者の声を封じ込めるために使っているのです。
これは最も弱い者、小さな者が愛されるのだと伝えたイエス・キリストの教えと全く相反するものだとは言えないでしょうか。
こういった体験に基づく思索の中から、私たちには、「贖罪論こそがクリスチャンを堕落させている諸悪の根源なのではないか」という疑問が生まれました。
そして、このような疑問から出発して、私たちは贖罪論という教義を根本から見直し、何らかの形で贖罪論に替わるものを提示できないかという思いを抱くようになりました。
そのためには、聖書解釈史、ユダヤ教史、キリスト教史など、多くの分野から学び直さなくてはなりません。道は長くなりますが、ゆっくりと、しかししっかりとその学びを続けてゆき、学びの途上においても、何らかの提言をなすことができればと思っています。
このようなイクトゥス・ラボの試みを、どうか応援してくださいますように、よろしくお願いいたします。
2020年4月27日(月) 富田正樹
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