「リベラルとコンサバ」について【リベラルとは何か】

 イクトゥス・ラボは、「リベラル・クリスチャン情報局」を名乗っています。この「リベラル」という言葉の意味、この言葉を掲げている意味を簡単に説明してみたいと思います。

 まず最初にお断りしておきたいのは、この「リベラルとコンサバ」という分類の仕方は便宜的なものに過ぎず、しかも日本でしか通じない物言いだということです。けれども、私たちの感覚的には、日本のクリスチャンは大体、「リベラル」(自由主義的なクリスチャン)と「コンサバ」(保守主義的・伝統主義的なクリスチャンに大雑把に色分けができます。これは教派による特色ではなく、物の考え方、キリスト教の受け止め方、信じ方のタイプのことです。

 私たちが「リベラルなキリスト教」を思い浮かべるとき、大雑把に以下の3つの要件を念頭においているように思います。

(1)逐語霊感説・聖書無謬説には立たない。
(2)科学的・合理的な知見に従う。
(3)人間の尊厳と自由を重要視する。

 (1)にある「逐語霊感説(ちくごれいかんせつ)」というのは、「聖書の一言一句全てが神の霊によって書かれている」という考え方のことです。また「聖書無謬説(せいしょむびゅうせつ)」は「聖書の一言一句全てに間違いは無い」という考え方のことです。
 この考え方で行くと、この世は6日間で創造されたことになり、ノアの洪水は史実であり、恐竜はこの世に存在しなかったことになります。また、人間が猿から進化したというのは嘘だということになります。
 私たちはこのような立場には立ちません。聖書は、ある特定の時代や地域(BCE3000頃からCE200頃までのパレスチナ、シリアおよびギリシア・ローマ地方)で、ある特定の人々(古代ユダヤ人や書記キリスト教会の人々)によって書かれた古典の一つであると考えます。
 人間によって書かれた書物ですから、当然書いた人々の時代背景や社会状況、書いた人々の置かれた立場や思想、読者として想定された人々への配慮などを想定しないといけません。
 また、聖書には「原本」(オリジナル)というものがありません。今世界で発見されている全てが聖書の「写本」(手書きの写し)であり、それもほとんどが断片的なもので、しかも、それらが互いに微妙に違う文言を記していたりするので、それを世界中の聖書学者がパズルのように組み合わせて「原典」の「底本」という構成本を出版しており、そこから各国語に翻訳されているのです。
 また、翻訳というのは一種の解釈の作業です。翻訳者によっても訳文の内容は変化しますし、同じ言語の翻訳聖書が何度も改訳されて出版されるのが現状です。
 このような状況で、「逐語霊感説」、「聖書無謬説」に立つこと自体に無理があるのではないかというのが私たちの考えなのです。

 (2)にある、科学的・合理的知見に従うというのは、(1)に書いてこととも重ねる要素がありますが、例えば、恐竜の化石が発見された場合、「この恐竜は本当は存在しなかった。聖書に恐竜のことは書いてないから」と考えるのではなく、「聖書に書いていないのは、この記事を書いた人が恐竜を知らなかったからで、実際に恐竜は存在したのだろう」と考えるということです。
 もっと現代の話をすれば、例えば現在の医学では、女性と男性という2種類の性しか人間には存在しないというのは間違いだということがわかっています。この場合、「聖書に人は男と女に作られたと書いてある。だから人間は男女の2種類しかいないのだ」と考えるのではなく、「聖書を書いた古代の人は、人間には多様な性があることを知らなかったのだ。実際には私たちは多様な性のあり方があることを知っている」という風に受け止めるのです。
 それでは、聖書に書いてあることは、みんな非科学的な妄想や無知から来る間違いばかりなのでしょうか。そのように考えるのも、科学的・合理的ではありません。むしろ、古代人と現代人では物の見方や世界観が違うのだという事実を想定して、聖書の言葉を解釈します。
 例えば、古代人は微生物やウイルスという存在を知りませんでした。そのため、彼らは「霊」という言葉で目に見えない力や存在を表現し、認識したのです。私たちは逆に「霊」という存在を感じ取ることができません。古代人が一概に劣っているとは言えません。現代人は古代人の持っていた感覚を失って退化したとも言えます。そのように考えることで、古代人には古代人の世界観があり、現代人の世界観とは違うのだということを念頭に入れておけば、どちらの世界観も否定せずに尊重することができます。

(3)は、詰まるところ、「宗教が大事か、人間が大事か」という本質的な問題です。コンサバなクリスチャンにありがちなのは、「人間よりも神が上なのだから、神の命令を優先しなければならない」という主張です。
 例えば、「聖書に『産めよ、増えよ、地に満ちよ」と書いてあるから、人口妊娠中絶は禁止すべきだと主張します。「女と寝るように男と寝る者は死ななければならない」と書いてあるから、同性愛者は死刑に処すべきだと主張します。
 「ヒューマニズム」という言葉はコンサバにとっては、リベラルを揶揄するときの常套句です。神よりも人間を中心に置いている愚かな考えだというのです。
 しかし私たちは、ナザレのイエスが「安息日に許されているのは、人を救うことか、殺すことか?」と問いかけた真意を受け止めたいと思います。また、イエスが神としての栄光を捨てて、十字架での死という究極の自己犠牲を選んだ事実に目を留めたいと思います。
 私たちが信じようとしている神は、人間の生命や尊厳や自由を損なってまで崇拝を要求するような方ではないのです。
 そのため、リベラルなクリスチャンは、神が自らを犠牲にしてまでも人を愛する方であることを信じるが故に、人を大切にしてゆきたいと願うのです。

 このような「リベラル」なクリスチャンの方向性に共感してくださる方もいれば、失笑をもって唾棄する方もいらっしゃるでしょう。
 もしこれを読んだあなたが、共感できるとお思いなら、私たちの仲間に加わってください。そして、その声を聞かせてください。
 一緒にのびのびと自由なクリスチャンの道を歩んでゆきましょう。

(執筆者:イクトゥス・ラボ代表・富田正樹@ぼやき牧師)
 

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