第7回の読書会は、第7章「神についての驚くべき知らせ」について発表者による纏めと感想や意見を述べたりしました。(2020年6月2日、発表者:ケン・フォーセット)
【第7章の概要】
この章では、「神」に関する様々なイメージを探り、パウロをはじめとする初期のクリスチャンたちが語った「良い知らせ」において「神」に関してどのようなメッセージが込められていたのか、従来の人々の神イメージとどう違ったのかが考察されていました。
古代から、異教徒の神々の概念により、神が暴君で人間に対して悪意をもって接する存在だという考えが人々の間で根付いていき、それを解決するために様々な哲学が考案されました。神が宇宙のすべてのと一体であるという考えや、それとは対照に、神は世界を造りはしたが自動運転に任せていて介入しない存在だという考えも生まれました。
旧約聖書に見られるイスラエル民族の神観では、天地を造られた全能の神であると同時に、人間にも深く関わって下さる神だと考えられていました。約束を成就させ、民を救ってくださる神だと人々は信じていて、その神の救いが来るのを待ち望んでいました。
1世紀にナザレのイエスが、自分こそがその神の約束を成就しに来たと宣言しました。それを受け入れた人たちは、彼の語る神の愛についての教えこそが神の国であると信じ、イエスに従うようになりました。イエスがあらわした神の愛は、その愛を歪めようとする悪の力とぶつかったとき、怒りとしてあらわされました。
イエスは十字架の死と復活によって悪の力に打ち勝ちました。そしてパウロや初期のクリスチャンたちは、イエスこそが神の真の姿、神がご自身を余すところなく啓示された方だと説きました。
キリストによる愛の神のメッセージが初期のクリスチャンの神像の中心となっていましたが、怒りをもって従わない人々を滅ぼすような異教的な神観も、教会の中にしぶとく残り続けました。近年でもそれに反発し、そのような神との関わりを嫌うがあまり、急進的な無神論者たちが人気を集めたりもしました。しかしその人たちが拒んでいる神は、そもそもの聖書の神ではないのです。
【まとめ】
キリスト教内外で、酷く歪められた神観が頻繁に語られますが、そのようなカリカチュア(戯画)を拒絶し、イエス・キリストに啓示されている神についての良い知らせに目を留め、そこから神、隣人、そして自分自身にも新たに向き合っていくというチャレンジが今日を生きる我々に与えられています。
グループのディスカッションで出た意見としては、哲学的な内容を扱いながら自分の考える神観も述べている中で、根拠を示さずにただ書いているだけという部分も散見され、落とし込み方が多少雑で、一般向けの本とは言え、脚注があればもっと信頼性があがるのに、などの意見がありました。 キリストにおいて真の神があらわされたことや、キリストの十字架の描写では父なる神が御子イエスを罰したという贖罪理解は一切見られないことなどを肯定的に評価する意見もありました。
次はいよいよ最終回になります。【8章 良い知らせを祈る】について話し合います。参加を希望されるかたは以下のアドレスまでメールをお送り下さい。
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