『神の招き』 ー聖書が教える人間のあり方ー

6月4日ツイキャス  https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/619887754

導入編:聖書の人間論

今日から新シリーズ「神の招き―聖書が教える人間のあり方」を始めます。当初は「聖書の人間論」という題名にしていたのですが、「難しそう」という声が複数あったので変更しました。また、結局は人間ではなく、人間に対してその大きな大きな愛と憐みよって救いの道を与えて下さるに焦点を当てた題名にしたいな、という思いもありました、

ルネ・ジラール 1923-2015

このシリーズでの主張
この題および副題では、二つのことを主張しています。まずは、副題ですが、聖書は「人間とはこのような存在だ」ということを教えてくれる書物だということです。私がこの考えに出会ったのは、ルネ・ジラールというフランス人人類学者の研究を通してです。彼は、人類学や文芸評論の観点から新たな「人間論」(人間とはどのような存在か)を提唱しましたが、彼が聖書に出会うと、聖書はその人間論を裏付けているだけでなく、そこにある問題点と、その解決法まで示していることに気付きました。

そこで次の主張ですが、神は私たちを新しい人間としてのあり方へと招いて下さっている、というものです。それが「救い」や「神の国」や「永遠のいのち」と呼ばれるものと重なってきます。このシリーズでは、聖書を創世記から黙示録まで様々なテキストを拾い、解釈したり他の箇所と読み比べながら、神の壮大の人類救済のストーリーを共に描いていきます。

教会でも神学校でも語られてこなかったような新たなパラダイムで聖書の福音について考えていきます。今まで謎だった聖書箇所や、矛盾だと思っていた箇所の意味が明らかになってきます。中には、今まで「当たり前」として教えられてきた読み方を変える必要に迫られることもあるでしょう。

まずは、聖書が語っている人間論の全体像を紹介します。人間とはどのような動物・生き物・存在であるか。私はこの人間論を3つのステージに分けています。このシリーズの中で繰り返し使うキーワードもたくさんこの中で出てきます。

【人間の第一ステージ:問題編】

まず「模倣」に注目したいです。人間は模倣的な動物です。生まれつき、他の人がしていることを真似る修正があります。行為を真似るだけでなく、思いや欲望も真似ます。4-5人の子供をおもちゃいっぱいの部屋に入れて遊ばせてみてください。必ずどこかで喧嘩が起きます。A君があるおもちゃで遊んでいると、そのA君を見て、BちゃんがA君の思いを真似ておもちゃを欲しがります。それが全員の子供に伝染して取り合いになることもあります。

大人になると、それがもっと酷い争いになりかねません。恋人を巡る争いは頻繁に起こります。小説などでは「欲望の三角形」とも言われます。例えば、1人の女性を2人の男性が好きになると、男性はお互いの欲望を模倣しあってその女性を手に入れようとします。

今では、そのような争いから人が傷ついたり、時には酷い時間が起きたりもしますが、その程度では人類が滅亡の危機に陥るわけではありません(模倣の伝染と拡大が人類崩壊の危機を実際には招いていますbがそれは後程触れます)。

欲望の模倣が起きると、それが争い・暴力に発展し、共同体の他の人をも巻き込んで伝染・劇化していきます。古代の人類、まだ「人間」と呼べるかどうかぐらいの古い社会では、その劇化した争い・暴力を抑えるすべがなければ、共同体が完全に滅亡してしまう恐れがありました。

でも人間は滅亡しませんでした。第二ステージに移行することに成功したのです。なぜ存続できたのでしょうか?

キーワード:模倣、欲望(願望)、争い、暴力、劇化、伝染

【人間の第二ステージ:解決!と思ったけど更なる問題にすぎない編】

第二ステージでは、人間が文化・文明と呼ばれるものを築いていきます。政治的な制度があり、労働の分担も高度で、限られた場所で長期的に安住できるようになります。そのような共同体のあり方には、第一ステージで起きた模倣的暴力を抑える工夫があったのです。

文化・文明を支える柱には禁忌、儀式、神話の三つがあります。

禁忌
模倣による欲望および争い、暴力に繋がりそうなものに対して禁忌・禁令を設けます。食べてよいもの/いけないもの、性行為をもって良い人/良くない人、などです。

儀式
争いが起き、その暴力的衝動が共同体全体に拡大した場合、共同体存亡の危機となりますが、大抵は共同体が二つに分かれて争い、負けた方が滅ぼされ、人口が減った状態でまた出直しとなります。しかし二手に分かれるにしても、片方が必ず多くなります。分け方が不均等であればあるほどよく、最も理想的ななのは100人の共同体だと99対1です。そうすれば、その1人を殺せば、残りの99人の暴力的衝動は一時的には抑えられます。

共同体崩壊の危機を何度も体験するうちに、1人の人間に共同体全部の悪意・暴力的衝動を発散させて殺すことが最も効率的妥当殊に気付きます。これをケープゴートと呼びます。一時的な平和を取り戻すために、一人の人が選ばれて殺されます。復讐が起きないように、できるだけ弱い立場の人が選ばれます。これは自然災害などにも応用されるようになり、争いがしっかり止むよう効果を求めて儀式化されます。儀式化された殺人を「生贄」や「供犠」と呼びます。他にも古代の宗教には様々な儀式がありますが、すべてスケープゴートのリンチ殺人を儀式化した供犠から様々に発展したものと考えられます。

神話
この儀式化された殺人、つまり供犠が平和を保つためには、そのストーリーが語られる必要があります。しかし共同体全体によるリンチ殺人として伝える訳にはいきません。その人が殺されるに値する行為を行ったことや、共同体を救う為に命を自ら捧げてくれたことなどを加えて、創作された神話が伝えられるようになります。犠牲者に様々な罪を着せると同時に、共同体に平和をもたらした存在として神として祀ります。次に供犠が行われる時は、その神に向けて捧げます。当然どんどん神が増えていくので、多神教が生まれます。これらの神々は、人間と同様、様々な良い性質も悪い性質ももっています。

トルコのギョベクリ・テペ遺跡

これが古代の文化・文明のあり方です。ざっくり言うと、宗教的ですね!そう、人間は文明・文化を築いた時から、ずっと宗教的な動物だったのです。宗教的でなかったことはないかもしれません。約8,000~10,000年前の文明の遺跡を発掘したトルコのギョベクリ・テペでは、供犠で殺された人の骨や、供犠用の祭壇などが発見されています。

これが第二ステージです。人間が安泰して存続していく土台は十分できたように見えますが、これは当初の問題の解決だと言えるでしょうか?暴力が激化したときに、爆発的にそれが広まるのを抑えるためにスケープゴートを選定して供犠を行って殺します。暴力を限定することで存続を図るやり方です。

しかしこのやり方では罪がないのに殺される人が必ずいます。本当に模倣から来る暴力を駆逐し、真の平和をもたらす方法はないのでしょうか?

それが第三ステージです。第三ステージこそが福音であり、神の招きなのです。

キーワード:禁忌、スケープゴート、供犠/生贄、儀式、犠牲者、神話

【第三のステージ:真の解決編】

第三ステージこそがこのシリーズのすべてです。神が私たちを新しい人間としてのあり方に導いて下さっています。その計画と導きを聖書を通して学ぶことができます。

聖書は「模倣」とそこから生まれる争いの問題を顕著に取り上げています。「模倣」と言えばテクニックな言葉に聞こえるかもしれませんが、身近な例を挙げると、宣伝広告ではよく有名な人を起用します。その人が欲しがっているものは、他の人も欲しがるという心理を広告会社は理解しているからです。日本では「皆さん使ってらっしゃいますよ」という営業の仕方がありますね。これが模倣的欲望の伝染です。「大衆心理」とも言えますし、これも聖書の中でちゃんと出てきます。

この福音は、今の時代にはいつになく不可欠なものとなっています。昔は刃物や火などを使った儀式では暴力の伝染と劇化は抑えられましたが、今では核兵器や化学兵器で競い合うようになりました。これも模倣の劇化によって起きたもので、今の時代の核保有国は「相互確証破壊」の原則のもとに一応「平和」を保っていますが、実は滅亡の危機がすぐそこに迫っているかもしれません。また人間の欲望のために地球そのものが「スケープゴート」となっているとも言えます。地球の環境を守るのも人類に課せられた責務の一つだと言えるでしょう。

だから私たちは聖書を開きます。聖書が、私たちが滅びないように、新しい人間としてのあり方に導いていただけるよう、神の前に遜って学びます。

神は、私たちを第三ステージに導こうとしています。それは聖霊の力であり、キリストが第三ステージの生き方を体現した模範的存在です。逆に、第二ステージに留まらせようとするサタンの力もあります。それについても聖書から学んでいきたいです。

【ソロモンの知恵】

ここで、少し面白い聖書箇所を読みたいと思います。典型的な「模倣」の話ではありませんが、一つの「対象物」を巡って二人の人が争い、全く同じ主張をすることで見分けがつかなくなってしまい、争いが激化しそうになる話です。一列王記では、ソロモンが王になって、神に素晴らしい知恵を与えられます。その知恵を見事に発揮した話が3章に書かれています。

16そのころ、ふたりの遊女が王のところに来て、その前に立った。
17 ひとりの女が言った。「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。
18 ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。
19 ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。
20 この女は夜中に起きて、はしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。
21 朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう。子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。」
22 すると、もうひとりの女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」こうして、女たちは王の前で言い合った。
23 そこで王は言った。「ひとりは『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ』と言い、また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」
24 そして、王は、「剣をここに持って来なさい」と命じた。剣が王の前に持って来られると、
25 王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」
26 すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。
27 そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」
28 イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

まず、途中までは二人は全く同じ主張をします。ソロモン王は見分けがつかず、剣で子供を半分に斬るように命じます。しかし、その途端二人の主張が別れる。一人は争いを収めるためには子供は死んでも良いと言って自分の主張にしがみつきますが、もう一人は、その子供の命を救うために自分の主張を放棄し、自分の母親としての権利も放棄します。。

王は、自分の権利を放棄して、命を救う決断をした女性を真の母親として認めました。聖書は、私たちが弱い命を奪ってまで自分の権利や主張にこだわり続けることよりも(第二ステージ、供犠的な生き方)、自分の権利を投げ出してでも命を救う生き方を神が尊ばれるということを繰り返し教えています。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:24-26)

また、ソロモン王は赤ん坊の殺害を命じる言葉を発していますが、話を終わりまで読むとソロモンはそのような暴虐的な意図は全くなかったということが分かります。聖書には、神が大量殺戮を命じるような箇所もありますが、それが本当の神の心でしょうか?(そのような箇所が歴史的に正しい描写かという話は置いておいて。)神の受肉として人となられたイエス・キリストの生き様を見れば、神は、ソロモンと同様、暴力を肯定するような意図は全くないと考えられないでしょうか?

【私たちの模範であるキリスト】

ソロモンの知恵の話は、我々を第三ステージへと導こうとする聖書の中に数多くある話の一例です。勿論、イエス・キリストの生涯と十字架での死ががその最たる模範です。ソロモン王は、自分の身を投げ出して子供を救った女性を称えました。では、そのような生き方をしたイエスを神はどのように尊ばれましたか?死から復活させたのです!

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(Iペテロ2:22-24)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人間と同じようなかたちになり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ2:6-9)

人間が模倣的な動物であることに変わりはありません。でも、我々は「第三ステージ」の生き方の模範的存在となって下さったイエスを真似すれば良いのです。イエスを模倣しても、争いにはなりません。すべてを造った神が人となった存在でありながら、私たちに対して「わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」(14:12)と言える方だからです。限りなく与え続ける愛のお方、平和の君イエス。彼に従うことが救いの道であり、それが「神の招き」です。

それについてもっと深く、これからこのシリーズを通して共に学んでいきたいと思います。

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