神の招き①『逆創世記』

6月11日ツイキャス  https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/621480111

先週の振り返り

今日からが本編の第一回となります。今月は「創世記」を中心に見ながら、福音書で啓示されているキリストの福音と照らし合わせていきます。

前回は「人間論」について話しました。ルネ・ジラールの模倣論を簡単に纏めると

⇒人間の互いの模倣を通して欲望が争いを生み、暴力が伝染・拡大して共同体全体を飲み込む
⇒人間がまだそのような暴力的衝動の爆発を抑える術を持っていなかった「第一ステージ」では、模倣から生まれる争いが共同体崩壊の危機に陥れた
⇒「第二ステージ」になると、争いの起点となる模倣の対象物を「禁忌」として制定すると共に、コミュニティ全体へと広がった暴力を一時的に解消するために一人の無実の人間を「スケープゴート」として殺す供犠が生まれ、殺された犠牲者は争いを生んだ罪人とされると共に共同体に平和をもたらした存在として神格化され、供犠行為が神話として伝えられていく。これが人間の文明化であり、すべての文化・文明の根底には宗教がある。
⇒共同体が頻繁に崩壊の危機を迎えることはなくなったが、模倣からくる暴力の問題が解消された訳ではなく、範囲を制限してシステム化しただけ。
⇒無実の人をスケープゴートにして殺すことで暴力の問題を解決する「罪」から人間は救われる必要があり、聖書は人間を「第三ステージ」へと導いている。

聖霊の力とサタンの力

我々を「第二ステージ」に留めようとするサタンの力と、「第三ステージ」へと導こうとする聖霊の力があります。聖書は至るところでこの両方の勢力間の争いを物語っていますが、その中でも、長らくクリスチャンの間で議論されてきたものの、なかなか難解であまり意味がはっきりしない箇所から取り上げます。

マルコ3:20-30

イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。

先週も少し触れましたが、スケープゴートにされる人は選定されます。その多くの場合は社会的な弱者であり、共同体の秩序を支えるために除け者にされます。古代イスラエルの神殿宗教には、身体障碍者や在留異国人など、中に入れない人たちが多くいました。イエスはいつもそのような人たちと共に過ごし、癒しを行っていました。神殿に入れる人と入れない人、という垣根を壊していたのです。つまり、第二ステージの人間の在り方のもとで被害者となっていた人たちを解放し、第三ステージの生き方を示していました!それが神の国の到来の宣言です!

それに対して律法学者たちは「悪霊のリーダーによって悪霊を追い出している」とイエスを非難します。でもイエスからすると、イエスが悪霊を追い出すことで困るのはサタンです。第二ステージのあり方が崩壊するからです。なので、もしサタンによってそれをしているのなら、サタンがサタンを追い出していることになるのです。少し前に、イエスはサタンの誘惑に打ち勝った話が書かれています(マタイ4:1-11)。つまり、イエスは既にサタン(強い人)を縛っていたので、サタンの王国に捉われていた人々を癒しによって解放できたのです。

では、それを「悪霊のかしらを使っている」と言ったパリサイ派が「聖霊を冒涜するものは赦されない」とまで厳しい断罪をイエスがしているのはどうしてでしょうか?ここでなぜ聖霊が特別視すされるのでしょうか?

ヨハネの福音書では、この世界の間違ったやり方を暴くのが聖霊の働きだと教えています(16:8-11)。ルカ4章でもイザヤ60を引用して「主の霊が私の上にある」と言い、「 捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」ご自身は遣わされたと言います。 イエスは聖霊の働きで、私たちを滅びに至る第二ステージの生き方から真の命を与える第三ステージへと導こうとしていましたが、それを律法学者たちが「悪霊だ」と言ったのです。

「赦し」は「解放」と同義語です。罪の力から解放して下さる聖霊の働きを「サタンだ」と言って拒否すれば、我々は第二ステージの生き方に留まり続けることになり、そこから解放される方法がもはやないのです。暴力を暴力によって抑え、弱い人たちを虐げ続けるやり方で邁進するなら、その中で結局は滅びに至るしかない、とイエスはここで言っているのです。決して聖霊の悪口を言えば自動的に地獄行だとか、我々が神学的に答えを出せる「聖霊への冒涜」なるものがあると言っているのではありません。

文脈の中で読めば、合理的に理解できる意味がありますし、このシリーズを通して提示している聖書の人間論とも合致します。

逆創世記 滅びの宣告から原罪まで

では、今回の本題である創世記を見ていきましょう。まずは創世記6:11-13から。

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らと地とともに滅ぼそうとしている。」

なぜこんなことになってしまったのでしょうか?(5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。)神が創造された肉なるものがすべて滅ぼされるという「バッド・ニュース」の宣告です。どうして人間はここまで暴虐で満ちてしまったのでしょうか?少し前に戻りましょう。

創4:23-24

さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

ここを見ると、暴力が手に負えないぐらいに広がっていったことが分かります。レメクは、自分を傷付けたという理由と若い男性を殺害し、自分は受けた分の77倍も復讐をすると豪語します。人間社会が完全に暴力的になってしまったことが明らかです。では、その原因をさらに遡って探り続けましょう。

創世記4:10-15

そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。 今や、あなたはその土地にのろわれてりう。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

御存知の通り、カインは神に捧げた生贄を巡って弟アベルを殺します。これが、アダムとエバの「原罪」以来、最初の明らかな「罪」行為です(「罪」という言葉が実際に最初に使われているのもこの話の中です)。当然アダムとエバの神への反逆が種としてありますが、その結果兄弟同士で争い合い、殺人で終わってしまいます。

しかし、殺されたアベルの血は復讐を求めて叫びます。そこで神は、復讐のサイクルへを止める施策として、カインにしるしを与えます。カインを殺した者は7倍の復讐を受ける、だからカインが殺人者であっても彼を殺すような真似はするな、というメッセージです。しかし、残念ながらその警告は人間にとって効力がなく、人間はさらに暴虐的になっていったようです。

では、その暴力の発端となった「原罪」の物語、アダムとエバの話を見ていきましょう。創3:8-15を取り上げます。既にエバもアダムも木の実を取って食べた後です。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

蛇をサタンだと仮定すれば、サタンはここで既に人間を第二ステージへと陥れようとしています。人間に木の実を食べさせることで、神と人間の間に敵意をもうけることに成功したのです。人間は蛇の策略に乗ってしまって、本来似せて造られたはずの神の姿ではなく、お互いの欲望を模倣する道に行ってしまったのです。このシーンでも、男も女も責任を他者になすりつけ合います。しかし、人間が本来の神の姿に造られたものに変わりはないのです。神がその子孫を、第三ステージの生き方へと導き、それによって蛇がもたらした破壊的な欲望の連鎖を断ち切るのです。

ここから聖霊の力による新しい命への導きと、欲望の模倣とそこから来る暴力のサイクルに人間を陥れようとするサタンの力との戦いが始まっているのです。それがこの箇所の最後の「彼は、お前の頭を砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」で言い表されています。

聖書以外の他の古代のテキストは、弱者を踏み砕いてスケープゴートにしたり、供犠的な殺人によって社会の秩序を維持しようとする生き方を批判するようなものはありません。でも聖書は人間をそこ導き出そうとしています。聖書の中の様々なヒーロー・ヒロインたちのストーリーは、失敗しながらも神が与える新しい(本来の!?)生き方へと突き破ろうとしているのです。そしてその生き方へと突き破るのに成功し、それを通して我々の新たな生き方の模範的存在となったのが、イエスです!

創世記の堕落を修復するイエスの福音

では、そのイエスの誕生から注目していきましょう。ルカ2:10では、救い主が生まれたことを天使が羊飼いたちに告知しています。

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

創世記6章では、すべての人を滅ぼすメッセージだったが、ここではすべての人にとっての良い知らせが告げられています!
それから大人になって宣教活動を始めたイエスは、どのように教えられたでしょうか?マタイ5:38-48を見ましょう。

『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

イエスがここで言っているのは、明らかに「復讐するな!」ということです。敵を愛し、迫害されても寧ろ相手を祝福せよ、ということです。このようにして、暴力のサイクルを終わらせる教えを広めていきます。さらに、マタイ18:21-22ではペテロとこのようなやりとりがあります。

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

ほとんどの英語訳では、七十七回となっています。日本語では7x70のような表現が多いですが。ここのギリシャ語は、創世記4:24のレメクの言葉「77倍」のLXX(旧約のギリシャ語訳)と同じ言葉です。つまり、イエスはレメクの復讐の宣言を取り消し、赦しによる新たな世界作り(第三ステージ)をしているのです!イエスはこれらの言葉を語っただけでなく、実際に行動で示しました。というより、示さざるを得ませんでした。十字架にかけられたからです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。( ルカ23:34)

さらに、復活後にはこう言います。

平安があなたがたにあるように。 (ヨハネ20:19)

実際に殺されても、イエスは復讐しない道を選んだのです。死に際にも、そして復活しても、赦しと平和を宣言したのです。通常、神話の中では、神々のよみがえりは復讐を意味しました。だからイエスが復活したと聞いて、本来喜んでも良い筈に弟子たちが恐れて隠れていました。彼らも最後の最後でイエスを見捨てたからでしょう。でも、イエスは究極のスケープゴートとなり、父なる神が復活を通してイエスの無実を立証し、そのイエスが何の復讐心もなく、平和と赦しを土台として我々と新たな関係性を求めて近づいて下さるのです。これこそ、福音じゃないでしょうか!

ヘブル12:24にはこのような言葉があります。

さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。

つまり、イエスはレメクの復讐宣言だけでなく、犠牲者の立場から復讐を求めたアベルの声も無効にし、代わりに赦しと平和を宣言するのです。

イエスは、新たな生き方を説く自身のことを「人の子」と言いました。パウロはローマ書でイエスを「第二のアダム」と呼びました。そしてローマ16:20では、創世記3:15の女と蛇の子孫同士の争いに、イエスが人間代表として勝利することを語っています。

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。

勿論イエスはサタンと実際にやり合っているシーンも福音書にあります。先ほど触れたように、荒野での誘惑に打ち勝つし、そしてエデンの園とは別のゲツセマネの園でも「あなたの御心どおりになるように」と祈ったことで、サタンの道ではなく、神の御心を「模倣」する道を選びました。

そして、復活を通してすべての人に新しい命を与え、創世記1章の天地創造のシーンで、「すべてはとても良かった」と言われている状態へと回復して下さるのです。創世記で人間が起こした堕落を、イエスは「人間代表」(人の子、第二のアダム)として、それをすべて修復して下さるのです。本当に素晴らしい福音ではないでしょうか!

苦しみの中での訴え

イエスはそうやって我々を「第三ステージ」へと導いて下さいます。当然、それには痛みも伴います。第二ステージに留めようとする力がどうしても働きますから。私たちも時には傷つき、痛みも悲しみも苦しみも経験します(逆に人を傷付け、痛みや苦しみを与えてしまうこともあるかもしれません)。それらの痛みは無視して良いものではありません。それは福音のストーリーの重要な一部です。

神が試練のために苦しめたりしているのではなく、人間が第二ステージの生き方の中でまずい決断をするから、自分の欲望を満足させるために人を殺したり、復讐するから、さらにその復讐を拡大させて関係のない無実な弱い人も巻き込んで苦しめるような道、そしてそれを生贄という神話で覆い隠す道を選んできたから苦しみがあります。

しかし神様はそこから人類全体を引き上げようとしてくださっていいます。一人ために。本当の意味で 一人の痛みが無駄にならない ためにに寄り添って下さいます。そして、その痛みを与えているこの社会が間違っている。それは悪だ!変えないといけない、というメッセージを、傷付いた掌の釘跡と共に訴えてくださいます。それが、社会を変革されるきっかけになることも実際にあります。

今アメリカで黒人差別に反対するデモが続いていて、大阪でもありましたが、アメリカでは様々な変化がすでに起きています。武器を置いてデモと一緒に歩む警察官、跪いて謝罪の意を表する人、また奴隷解放に反対して南北戦争で南側の式をとった人たちの像が撤去されたり、警察法の改訂を行う州が出たりと、ポジティブな変化が見られます。アメリカの黒人たちが苦しんだという歴史は変わりませんが、今、アメリカが生まれ変われるかもしれない何かが起きています。第二ステージに留まって更なる人々を生贄に捧げ続けるか、愛と平和と赦しに根付いた第三ステージに移行できるか、今後が注目されます。

まとめ

以上のように、このシリーズで語ろうとしている福音理解、聖書の「人間論」からの「救い」の理解は、決して2000年前に起きただけのことでもなければ、理論上のものでもありません。一番賢い説明ができた神学者が優勝、みたいなものではないです。それは「神の国・支配」と呼べる大きな力を持つもので、現代においても、私たち一人一人の人生、家族、共同体、社会全体、国までも作り変えられる大きな力を持つ神の働きです。

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