神の招き②『兄弟喧嘩』

6月18日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/623010603

先週の振り返り

前回は創世記を6章から逆に追いながら、イエスという人が人類が創世記の中で起こした「堕落」の要素をその生涯・教え・死・復活において一つ一つ回復させているのを福音書と対比させて見ました。最初の人間アダムは、神の似姿に造られた本来の「人間のあり方」から離れましたが、イエスはそれを忠実に歩み抜きました。イエスこそが我々が「模倣」すべき存在であり、このシリーズで「第三ステージ」と言っている「神の国」、人間論で言えば「新しい人間のあり方」へと導いてくれる救い主です。

祈りについて

この回では、まず「祈り」について考えることから始めたいと思います。私たちは何故神様に祈るのでしょうか?イエスは、祈りも「模倣」と繋げて教えています。

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:5-8)

私自身、信仰に対する考えが移り変わる中で、以前のように祈れなくなった部分があります。神様に自分のお願いをするのはご利益的だし、神様が祈りを聞いてくれるかくれないかが、あたかも「祈りpt」や「信仰pt」に左右されているかのような考えに疑問を持ったからです。でもこの箇所を読むと、祈りは神の考えを変えるのではなく、我々の心を変えるためだということが分かります。

私たちは模倣的な動物で、特に他人の欲や願いを模倣しますから、周りに大勢人が居る中で神様にお願いをすると、結局それは周りの大勢の人の願いになってしまうことがあります。私も以前祈祷会で祈る時に、周りの人が「アーメン」と言ってくれるような祈りをしていたことが多々あります。それが続くと、自分中心で私利私欲を求める人間の思いでの祈りばかりになります。しかし神様とだけ向き合って祈れば、私たちの願いは神様の願いの通りになり、それがいずれ私生活にも生かされるようになり、私たちの言動が神様の望むようなものに変わっていきます。

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」のです。だから心配して長々と必要を懇願するのではなく(必要を懇願してはいけない訳ではないですが)、自分の思いが神様によって変えられるように、人を真似て生きるのではなくキリストを真似て生きられるように祈り求めて生きたいですね。

エサウとヤコブ

では今日のメインテーマである「兄弟喧嘩」について見ていきましょう。特に創世記には兄弟による争いが多いです。姉妹同士の争いもあります。先週カインとアベルについて触れましたが、生贄を巡ってカインが起こり、弟アベルを殺害してしまいます(創世記4:3-15)。その後、洪水後のノアの兄弟の間でも問題が起き、ノアの子供のハムの行為のおかげでハムの息子のカナンがノアに呪われます(創9:18-27)。

後に神と共に歩む人として呼び出されたアブラハムも、神の約束を通して与えられた息子のイサクと、その前に約束を待ちきれずに妻サラではなくサラの奴隷のハガルとの間にできたイシュマエルとの間にも争いが起きます。イサクを虐めていたかどでイシュマエルが追放されます。アブラハムの死の際に二人は共に父を埋葬しますが、その後イシュマエルの子孫については「それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ」(創25:18)と書いています。

中でも、エサウとヤコブの兄弟同士の争いは非常に詳細に書かれており、このシリーズで触れている「模倣」「欲望」「暴力」の概念も顕著にあらわれます。2人が母リベカの胎にいるときから「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」(創25:23)と預言され、出産ときには弟ヤコブはよっぽど兄になりたかったのか、兄エサウのかかとを掴んで出てきます(25:26)。その「長子の権利」を巡ってある出来事が起きます。

さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。(創世記25:29-34)

こうして、生まれた時から欲しがっていた「長子の権利」をヤコブはスープ一杯で買い取ります。しかしこれだけに留まらず、ヤコブはエサウが本当に欲していた父イサクの祝福をも奪い取ります。

年をとり、先が長くないと悟ったイサクは、贔屓にしていたエサウを祝福しようとし、エサウの得意の狩猟で獲物を捕まえて食べさせるように命じます。それを聞いたイサクの妻リベカは、自分が贔屓しているヤコブが祝福を得られるように策略を建てます。父に食べさせる料理はリベカが飼っている山羊を調理して用意し、ヤコブは目の見えないイサクの前にエサウの着物を着、エサウの毛深さを真似て首や手の部分につけ、母リベカが料理した山羊を運んで食べさせます(創27:1-27)。

イサクはまんまと騙され、ヤコブをエサウだと思って祝福します。その後にエサウが帰ってきて事の次第が発覚しますが、イサクにはエサウに与える祝福は残っておらず、エサウをヤコブを激しく恨み、殺す計画を立てます。エサウの殺意を知ったリベカは、ヤコブを遠く離れた兄ラバンのところへ行かせます(27:28-43)。

人間の争いは大抵ある特定のものを所有したいという願望を模倣することで始ますが、そのうち焦点が対象物ではなく、ライバル自身に移っていきます。カインは、神からの祝福が得られるに怒りましたが、その祝福を得ることよりも、ライバルであるアベルを殺す方向へと走ってしまいました。エサウとイサクも、長子としての立場を巡って争っていましたが、最終的にはエサウの目標はヤコブを殺すことへと変わります。

この後ラバンのもとで暮らしたヤコブは、様々な事情により姉妹であるレアとラケルの2人と結婚します。この2人も「子作り」において互いに争います。その後ヤコブはラバンの下を離れ、シュケムという場所に移動しますが、そこでエサウ一行と鉢合わせになります。大量の贈り物を用意して下手にでたヤコブですが、エサウに思いが通じたのか、エサウは一切の恨みを持たず、二人は抱き合って泣き、和解します(創世記28-33章)。

このようにして、イシュマエルとイサクもそうですが、旧約聖書では兄弟同士の争いが国同士の争いに発展したことを語っています。

新約聖書―イエスの「兄弟」観

新約聖書でも「兄弟」のテーマは至るところに出てきます。弟子の中にも少なくとも二組の兄弟がいます。ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネです。

ある時、イエスは兄弟間での争いについてアプローチされます。

群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい…。」(ルカ12:13-15)

つまり、イエスは兄弟間での遺産争いでどっちに分があるかとか裁くつもりは一切ない、ということです。そのようなものは結局争いにしか繋がらないということをイスラエルの歴史が示しています。またイエスは山上の垂訓の中でこのように言っています。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:21-24)

これは凄い箇所だと思います。「供え物」は当然神に対する礼拝、あるいは神に対して罪を犯した時の和解として捧げるものですが、それよりも兄弟との和解を優先しなさいってことです!よく神への愛を優先すべきで人への愛は二の次のように言ったり、人への愛を強調しすぎると「ヒューマニストだ」という批判をするクリスチャンもいます。しかしイエスはここで兄弟同士の和解の方が神への礼拝や償いより大事だ、とはっきりいっています。

そして、イエスに従うクリスチャンはこのあと「兄弟・姉妹」と互いを呼び合うようになりますが、互いがどのように接し合うべきかを、イエスはある大胆な行為をもって教えました。ヨハネ13章からです。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。(ヨハネ13:1-15)

「模範を示した」とはっきり聖書テキストにあります。聖書は我々にイエスを模倣するように教えているのです。イサクはヤコブを祝福したときに、エサウを含む他の兄弟が彼に仕える、と言いました。それは、仕える側が「負け組」「祝福をもらえなかった方」と通常は認識されるでしょう。しかしイエスは自ら仕える者の姿をとり、弟子たちの足を洗われたのです。そして私たちにも同じこととをするように招いています。

最後に、Iヨハネにはこのようなことが書いてあります。

神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。 4:16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(Iヨハネ4:11-21)

ここでも、兄弟愛の伴わない神への愛は偽りだと書かれています。そう、神を愛することは、人愛することを通してのみ可能なのです。これがイエスの道です。イエスにあって我々が兄弟姉妹となって足を洗い合い、重荷を荷い合う時に神の国がそこに来るのです。第2ステージの生き方から、第3ステージの生き方へと神様が私たちを招き、導いて下さっているのです!

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