7月9日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/627344965
創世記から出エジプト記へ
今までは創世記の中で繰り広げられる兄弟間抗争のドラマを中心に見てきました。その中で、このシリーズで取り上げている人間の「模倣」や「暴力」の問題もかなり浮き彫りになってきたと思います。また人間世界で起きた「堕落」が新約聖書ではイエスによって修正されていき、新たな人間の生き方のビジョンも示されていることが読み取れたと思います。
創世記はヨセフの話で終わります。彼に対して深い嫉妬と憎悪を抱いた兄弟たちによってエジプトに売られたヨセフでしたが、困難を乗り越えてエジプト全土を王様パロに代わって統治する地位に付き、エジプト全土を飢饉から救いました。その中で自分を兄弟たちと再会し、和解し、父ヤコブもその家族もすべてエジプトに迎え入れました。
さて、数百年過ぎて、ヨセフのことなど全く知らない王が現れ、イスラエルの子孫たち(へブル人)を奴隷扱いするようになりました。ついには、ヘブル人の男児の殺害を命じます。その中で生まれたモーセという男の子が生まれますが、彼の母親は殺されないように彼を隠します。隠しきれないことを悟ると、彼を籠に入れてナイル川に流し、それをパロの娘が拾い上げ、自分の息子として育てます。エジプトの王子としてモーセは育ちますが、自分が元々はへブル人であることは知っています。大きくなったモーセは、自分の民が過酷な扱いを受けて苦しんでいることを知ります。ある日へブル人を助けようとして、エジプト人を殺してしまいます。しかしへブル人にも彼は受け入れられず、ミデヤンの地へ逃げます。そこでモーセは神に出会います。今日の学びはまずここからです。
モーセ神に会う「わたしはわたしである」
出エジプト記3:1-16
モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は、「はい。ここにおります」と答えた。 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。
モーセはこうしてイスラエルの人々をエジプトから連れ出す使命を神から与えられます。今日はこれについては焦点を当てません。ここで注目したいのは「一神教」の起源的な考えです。これが当時の神観からするとどれだけ画期的だったかを考えたいです。これは出エジプト記のここの一瞬の出来事ではなく、トーラ(律法)そして旧約全体の中でずっと起きていることです。それは私たちにも大きな影響を与えるものです。
まず、「わたしはわたしである」という神の宣言は「反模倣」を意味します。人間は模倣から来る争いの中で「自」と「他」を区別して争います。自分と違う人をスケープゴートにして殺す、排除する、そういった存在です。その中で生まれた神々も、人間のこのような性質をそのまま持って争い合い、殺し合ったりします。でもそういった「自と他の争い」とは全く無縁で、完全にその外にいる存在はいないのか?そう考え始めたのがへブル人の一神教思想です。
だから、私たちが「神は唯一だ」というとき、多神教に対して単に「一人だけ」と言っているのではないのです。神はどんな存在とも争う必要がなく、そのすべてを超越した方、人間のような模倣的欲望と一切無縁の存在だということを宣言しているのです。
人間の堕落が模倣に起因し、その結果が暴力・争いなら、そこから人間を救い出せる神も模倣・暴力・争いと無縁の神であることは、必然と言えるのではないでしょうか?
十戒―唯一の神
少し飛んで出エジプト記20章の十戒から取り上げます。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
出エジプト記20:3-6
ここまでが第一および第二の戒めとされています。ここではやはり「模倣」の禁止が強調されているように読めます。他に神々があってはならない、つまり、真の神、「わたしはわたし」と宣言する神を、他の神々と争い合うような存在としてはならない、ということです。
だから偶像も作ってはいけません。偶像は、何かに「似せて」作るので、じゃあもっと本当の神に「似た」ものを作ろうとしたり、必ず「模倣」として「争い」に繋がるからです。繰り返しますが一神教の重要性は神が複数から単数になったことではなく、神が人間のあり方を象徴する模倣的欲望とは無縁の存在として認識されるようになったことです。
まず自分たちが拝む神を、誰とも何のライバル関係にもない神、模倣、そして模倣から来る欲望、欲望が引き起こす争いと暴力の悪循環の中にいない存在とし、その神に導かれることでイスラエルも周りの国々と違ってこのスパイラルから抜け出そうとする、つまり救われるというビジョンです。旧約聖書ではイスラエルがえらべれますが、本当は創世記12:1-3を見ると、地球上のすべての人がそうやって救われることを神が望んでいることが分かります。そのモデルとしてイスラエルが選ばれ、それが全世界に広がっていく姿をペテロはIペテロ2:9で書いています。それを世界に伝えていく役割がイスラエルだけでなく教会に広げられたことをあらわしています。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、きよい国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あたながたが宣べ伝えるためなのです。
贖罪の日
この唯一の神、誰とも争う関係にない神が、他の神々と圧倒的に違うことを示す箇所が律法の中にあります。レビ記16章では、「贖罪の日」と呼ばれる祭りについて書かれています。イスラエル全土でその年の間に人々が犯した罪、気付かずに犯してしまった罪も含め、それらをすべて帳消しにする日です。
詳しくはレビ記16章を実際に読んでいただければ分かりますが、大まかに纏めると、大祭司はまず雄牛を屠り、その血で神殿の聖所、それから祭壇の至るところに血をかけ、それらを清めます。それから山羊を二頭選び、一頭を罪のための生贄として屠り、もう一頭はイスラエルのすべての罪を着せて野に放ちます(これが「スケープゴート」の由来)。
この儀式を通して、イスラエルのすべての罪(無自覚に起こした律法違反)と背き(意図的に起こして律法違反)が赦されます。さて、ここで問題です。この「大祭司」は、誰の代わりなのでしょうか?捧げる生贄は、大祭司自身ではなく、そのすべての民の代わりに捧げていますので、民を代表して神に赦しを求めているのでしょうか?或いは逆というのはあり得ないでしょうか?つまり、大祭司は、民全体に代わって神に赦しを求めているのではなく、民に赦しを与える神を象徴しているのだとしたらどうでしょう?
旧約聖書続編の「シラ書」に、イエスご生誕の約100年前に行われた贖罪の祭りで、その時の大祭司シメオンの姿を描写したシーンがあります。
彼が聖所を進み行くとき、主の家の垂れ幕から出て来るとき、なんと栄光に満ちていたことであろう。彼は、雲間に見える明けの明星、祭りの時の満月、いと高き方の聖所の上に輝く太陽、きらめく雲に照り映える虹、初物の季節のばらの花、泉のほとりの百合、夏の日のレバノンの若草のようであった。香炉の中の火と乳香、ありとあらゆる宝石をちりばめ、延金で造った器、たわわに実をつけたオリーブの木、雲を突いてそびえる糸杉のようであった。
彼が輝かしい衣をまとい、この上なく華麗なものを身に着け、聖なる祭壇に上ると、聖所の境内は栄光に輝いた。彼が祭司たちの手からいけにえの一部を受け取り、祭壇の炉の傍らに立つと、彼の周りに、兄弟たちの冠のような円陣ができた。彼は、あたかもレバノンの若杉、兄弟たちは、あたかもなつめやしの木々のように彼を取り囲んでいた。
アロンの子らも皆きらびやかに装い、主への献げ物を手に、イスラエルの全会衆の前に立った。シモンは、祭壇での務めを終えると、全能のいと高き方への献げ物を調え
杯に手を伸ばして、ぶどうの汁を注ぎ、祭壇の土台に振りかけて、万物の王、いと高き方への芳しい香りとした。その時、アロンの子らは歓声を上げ、延銀のラッパを吹き鳴らし、いと高き方に思い起こしていただけるように、大音響をとどろかせた。その時、民全員が一斉に、急いで地面に顔を伏せ、彼らの主、全能のいと高き神を礼拝した。
すると、詠唱者たちはその声で賛美を献げ、その調べはこの上なく朗々と、甘美に響き渡った。民はいと高き方である主に乞い願い、主への務めが終わるまで憐れみ深い方に祈り続けた。こうして、彼らは主の祭儀を終えた。それから、シモンは降りて来て、イスラエルの子らの全会衆の上に両手を掲げ、その唇で主の祝福を与え/御名を唱える光栄に浴した。
ここでは、大祭司シメオン(シモン)の描写は、まさに彼を神として褒めたたえているかのようなオーバーな表現です。これは、大祭司が神に代わっていた、と人々が認識していた可能性が非常に高いことをあらわしているでしょう。つまり、イスラエルの世界観、旧約聖書の世界観では、我々の罪に対して、我々がそれらを告白し生贄を捧げた時にそれを赦してくださる、というものではなく、神が初めからご自身を我々のために捧げることで、我々に対する赦しを宣言しているのではないでしょうか?我々あ赦しを請う前に、神の側から能動的に赦しを与えて下さっているのではないでしょうか?
神々の怒りをなだめるために動物や人を殺して捧げる「供犠」は古代のどこの文化にも見られるものです。それが人間の文明・文化・宗教のシステムです。しかし聖書では、神がそのような人間のシステムに入って来て下さり、それを根底から覆すことで、我々を新しい道に導いているのです。なんという愛、なんという恵みでしょうか!
大祭司イエス
その愛の最たる現われは、イエス・キリストです。イエスがヨハネ17章で弟子たちに対して祈った祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれています。贖罪の日にいつも大祭司が民を祝福する祈りを祈ったと言われています。ここでイエスは、神を代表する大祭司として、我々のために祝福を祈って下さるのです。
父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
ヨハネの福音書17:1-26
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。
私たちが神を知るように、そして私たちが一つとなるように!神が唯一であり、どのようなライバル心や暴力的争いとも無縁であるのと同様に、我々も一つとなり、人間を堕落させている模倣的欲望とそこから繋がる暴力から抜け出し、神の子供としてこの世界で輝くように。それがイエスの祈りであり、聖書を通して読み取れる神のビジョンです。そこに、本物の「永遠のいのち」があります!
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