神の招き⑤『欲しがるな』

7月16日ツイキャス  https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/628761479

このシリーズでは、「人間とはどのような存在か」という視点で聖書を読み、そこから得られるテーマについて考え、我々が教会で教えられる「罪」「救い」「聖霊」などの言葉と繋げて理解しようと試みています。勿論聖書は神についての話です。救い、恵み、祝福、永遠のいのち、これらはすべて神からのもので、神が我々に与えて下さるものです。

しかし、クリスチャンとして「真理を知っている」という思いが定着すると、いつしか自分が神の視点に立ったように聖書を読んでしまいがちです。私たちは人間として、聖書が人間をどのような存在として見ているか、そのような状態に人間が居て、その人間に対して神がとのように接し、導いて下さっているように描いているかを考えていくのがこのシリーズの狙いです。

人間は「模倣的」な存在

これは強調してもしきれません。我々は互いに真似し合う存在、互いの欲望や思いを真似し合うことで、互いに繋がり合う存在となっているのです。啓蒙主義以降、人間はそれぞれ個々に自立した存在として考えられるようになりましたが、ルネ・ジラールの人間論ではそれに真っ向から反対します。私たちは、周りの人たちのそれぞれの姿を映している存在だというのです。

互いの願望や欲求を真似し合うことで、それが争い・暴力に繋がり、暴力が激化すると共同体・社会の存続の危機となります。模倣は、ある意味人間にとって毒なのです。模倣は脳の無自覚な部分で起こるため、その危険性に気付かず、自分を害していることにも無自覚のまま模倣のスパイラルに陥ってしまうことがあります。

出エジプト記7章から、モーセとアロンは「イスラエル人を解放するように」とパロに要求し、神が自分たちの味方だということを示すために、数々のしるしを行います。ただ、パロの傍にいる魔術師たちも同じことを行います。彼らはモーセとアロンを模倣し、争うのです。

じゃ少し「模倣」がどれだけ人間を狂わせるかを描いた物語を出エジプト記からする。

また主はモーセとアロンに仰せられた。

「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行え』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ』と言わなければならない。それは蛇になる。」
モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。
そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。
彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

出エジプト記7:8-12

杖を蛇に変える?それぐらい余裕でできるわ!と言わんばかりにエジプトの魔術師たちも同じようにします。アロンの蛇に飲み込まれてしまいますが、まあ杖がいくつかなくなったぐらいです。しかし、次にもっとおかしいことが起きます。

主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。「また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
なるの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。

出エジプト記7:19-22

今度は、杖を使った遊びではありません。自分たちの生命に関わる「水」です。それなのに、魔術師たちは同じようにアロンを真似て、水を血に変えてしまいます。割愛しますが、次の「かえる」の災いも同様です。それによって自分たちがさらに被害を被ることになるのに、それでもアロンに対抗して同じことをするのです。完全に「模倣のスパイラル」に陥ってしまっていることが分かります。自滅行為です。

「法」=模倣・暴力の緩和措置

どの国にも法律は存在します。その理由は、社会が崩壊しないように秩序を保つためです。今では何千年もの人類の経験の積み重ねによって様々な法律が現代社会のニーズに合う形で整えられていますが、古代の文明における人間社会の法は、暴力が無限に広がって共同体が滅びることがないよう、人間の暴力性を緩和するための措置だったと考えられます。

また、模倣的欲望を駆り立てる物を禁忌として制定するような法も古代にはよくありました。それが食や性にまつわるタブーの理由だと考えられています。今でもよく理由の分からない校則などがニュースになりますが、それも本来は、たくさんの人がそれを真似るとトラブルになるかもしれない、という懸念から決められているのでしょう。

モーセの律法の中にも、勿論共同体内での暴力を阻止するような戒律はたくさんあります。しかし、モーセ律法の中心部分である「十戒」には、暴力だけでなく、暴力の根幹となる人間の「模倣的欲望」を止めようとする一文があるのです。出エジプト記20章に見られる十戒をまとめてみましょう。

一、他に神々があってはならない
二、偶像を作ってはならない
三、神の名をみだりに唱えてはならない
四、安息日を守れ
五、父母を敬え
六、殺してはならない
七、姦淫をしてはならない
八、盗んではいならない
九、隣人について偽証してはならない
十、隣人のものをむさぼって(欲しがって)はならない

この中でも、「十、隣人のものをむさぼって(欲しがって)はならない」が非常に画期的です。実際に誰かを殺めたり物を盗むことだけでなく、その前段階となる欲望も禁止しているのです。

実際の運用を考えてみると、この戒めをどのように人々に強制するのでしょう?無理ですよな。これは殺人や強盗みたいに外向きに分かるものではないからです。実際に、十戒の他の項目に違反した場合は死を含む厳しい罰や、赦しを得る為に捧げ物が必要だったりします。しかし第十の戒めにはそのような規定は一切ないのです。つまり、それぞれの良心に委ねられていたわけです。

イエスの律法観

イエスは、この第十の戒めの重要性を取り上げています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

マタイ5:28-30

ここで「情欲」と訳される言葉は、十戒の第十の戒めの「むさぼり」と同じギリシャ語の言葉です(旧約の場合は七十人訳)。現代の多くの教会では、異性を性的な目で見ることに限定して、性欲が盛んな若者を断罪するのに使われますが、これは第十の戒めを強調したものなのです。隣人の妻と性行為を行えばそれは「姦淫」となり、それは死罪で罰せられ、多くの人にとって破滅を招きます。そうなる以前に、他の人の妻を欲しがってはならない、とイエスは言ってます。独身の若い人たちが異性(あるいは同性)に性的魅力を感じて妄想することは、この箇所では全く視野外なのです。

またこの箇所の少し前にもイエスはこのように言っています。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

マタイ5:20-22

教会では、イエスは我々に到底守れないことを知らしめるために律法を更に厳しくした、みたいに教えることがありますが、全くの誤りです。イエスが教えたことは律法の中に既にあるものであり、イエスは律法の根幹を掘り起こすことで、律法の真の目的が達成されるような律法の理解と実践を促しているのです。ここでイエスが言ったことも既に律法の中にあるのです。

心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

レビ記19:17-18

先ほどの言ったように、第十の戒めは、破っても外側からは見えないものだったのです。生贄を捧げながらそれを告白することもないです。完全に自分の心の中で神との関係性において認識するものです。しかし、本当の罪はそこから(つまり、模倣的欲望!)始まるのだという気付きが律法の中で既にあり、イエスはその部分を掘り起こします。

パリサイ派や律法学者は、自分たちは律法を固く守っていると自負し、周りにもそれを求めていました。確かに外側から見ればそうだったかもしれませんが、イエスは心の内側から変わらなければ、真の律法遵守にはならないことを強調しました。だから「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言ったのです。天の御国は、模倣的欲望からの解放であり、このシリーズで言っている「第二ステージ」から「第三ステージ」へ移る新しい人間としてのあり方だからです。

パウロの葛藤

パウロもローマ7章で、自分の心の中での罪との葛藤について述べていますが、ここで想定される「罪」も、第十の戒めが中心になっています。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

ローマ7:7-9

さらに

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

同7:15-20

パウロが何度も行いたくなくて行ってるものであれば、殺人や強盗ではないでしょう。十戒の中で唯一考えられるのは、第十の戒めの「欲しがること」です。パウロは、模倣的欲望に留まらせようとする力があると言っています。しかし、イエスが与えた聖霊がそこから我々を導き出して下さるのです。

聖書は、律法も、そして律法の真意をもっと深く解釈して教えている新約聖書も、模倣的欲望から来る暴力の危険性を十分に認識していることが分かります。人類学的な知見から浮かび上がった「模倣論」に聖書的な補強がしっかりあることは、凄いことだと思います!聖書は、人間がどのような存在であるかをしっかりと教え、そこから新しい生き方へと我々を招いてくれているのです!

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