ネット教会から見える「罪」の風景

以下は2021年8月12日(木)〜13日(金)に行われた、イクトゥス・ラボのオンライン夏合宿で発題させていただいた内容です。

富田正樹担当の「ネット教会から見える『罪』の風景」で、12日(木)の21:00からお話させていただきました。当日ご参加いただけなかった方も、よろしければお読みください。

ネット教会(ウェブ教会)「iChurch.me: 三十番地キリスト教会」

▼はじめに

 みなさん、こんばんは。イクトゥス・ラボのぼやき牧師こと富田正樹です。今日と明日のイクトゥス・ラボのセミナーは、「罪」というのが基調テーマなんで、私も「罪」について考えて、お話することになりました。といっても、もうだいぶ歳なんで、自分のやってきたことの回顧録みたいな話になると思います。

 お話のタイトルは、「ネット教会から見える『罪』の風景」です。

▼ネット教会とは

 この「ネット教会」というものなんですが、私は、イクトゥス・ラボに参加する前から(今もやっていますが)、実は「iChurch.me:三十番地キリスト教会」というネット教会を20年近くやってきています。「iChurch.me」とか、「三十番地キリスト教会」というネーミングの由来については今日は割愛させていただきます。

 20年近く前というと、まだ今みたいに多くの人が便利にウェブサイトを作ったり、動画を作って配信したりといったようなことが、なかなかできない時代でした。私自身も、HTMLというウェブサイトを書くための言語を本を読んで勉強して、そのタグを打ち込むところからサイト作りを始めたような人間で、周りにもそういうことをやる人は非常に少なかったです。

 そういう意味ではキリスト教の界隈でインターネットで発信をするという方法では、比較的早かった方かなとは思います。一部の人たちには「先駆者」であったように言われることもありますが、否定はしません。

 特に、これは今も変わっていない状況でもありますが、このような新しいメディアを使っての発信なり、宣教というのは、いわゆる「福音派」、あるいはいわゆる保守的だと言われる思想の人々の方が、盛んにやっていました。思想的には古いけれども、方法は新しいという人たちのほうが、私なんかよりずっと先駆的にやっていたわけですね。

 私が先駆者であったとすれば、それはリベラルなキリスト教の内容を発信したという意味では、そうだったと思います。

 と言いますのも、その頃ネット上に溢れていたのは、「信じましょう」、「祈りましょう」、「教会はいいところ」ですよ、というような建前のような内容のメッセージとか、教会の礼拝のお話の原稿をそのまま載せてるとか、そういうが多かったわけです。ところが、それでは面白くないと私は思ったわけですね。

▼下世話なQ&A

「キリスト教 下世話なQ&Aのコーナー」の扉

 それで、ウェブサイトの中に「キリスト教 下世話なQ&Aのコーナー」というページを作りました。「下世話」というのは、おおっぴらに話すような話ではなくて、下々でヒソヒソ話すような内容だということですよね。「下世話なQ&A」では。面と向かって教会の牧師には尋ねにくいような質問を100個以上並べて、これにお答えするコラムの集大成みたいなものを作ったわけです。

 例えば最初に書いたコラムは、確か「聖書ってどうやって処分したらいいんですか?」という質問に対するお答えでした。これは、勤め先の学校の生徒さんから受けた質問ですね。「捨てたらバチが当たりますか?」みたいですね。

 他にも、「教会で結婚式挙げると安上がりですか?」とか、「セクシーな服で礼拝に出ちゃいけないんですか?」とか、「キリスト教を信じたらお金持ちになれますか?」とか、そういう下世話な質問をいっぱいいっぱい作っていったわけです。

 このサイトは今でも公開していますし、今ある114個の質問のうち、28個がまだ工事中ですね。「早く完成させて下さい」という声も頂戴しながらも、次から次への新しい質問を思いつきますし、いつまで経っても完成というものはないんですね。で、他のことにかまけている間に、何年も放置したままになっています。まあ興味のある人は「下世話なQ&A」で検索してもらうとすぐに出てくると思います。

 それで、この「下世話」がですね、一定の反響があったわけですね。

 クリスチャンに対して、面と向かっては聞きにくい質問を検索すると大抵私のサイトに行き当たるんですね。そこでリベラルな言説を展開しているものだから、保守的なクリスチャンたちから、苦情や抗議や、中には脅迫まがいのメールが届いたり、掲示板が論争で炎上したり、散々な目にあったこともある。

 あと、相談のメールですね。多い時は毎日とは言わないまでも2,3日に1ぺんは長文の相談メールが届くようになりました、これにまた長文でお返事を書くということをずっとやってきておりまして、一時期はそれが忙しくて、悩んで悩んでメールのお返事を書くのに追われるということもありました。

 今思うとですね、あれは一種のメールカウンセリングの走りのようなもだったのかなと思いますね。そして、それは自分のやるべき牧会、宣教の働きのひとつなんだと使命感を感じながらやっていました。

▼「罪」についての問い

 その相談メールの内容がですね、やはり圧倒的に多かったのが、罪に関する問題だったんですね。

 ありがちなキリスト教に関する質問とか、「ノアの方舟って、あれ本当ですか?」とか、そういう興味本位の質問じゃなくて、「あれは罪ですか、これは罪ですか」、「私は罪人なんですか」という質問がほとんどでした。

 こんなに罪のことで悩んでいる人が、キリスト教の周辺には多いんだと。「キリスト教には関心はあるけれども、自分のような人間は罪人だと言われている、どうしたらいいんだ」という人がたくさんいるわけです。「あれも罪、これも罪」とキリスト教会は言う。文字通り「罪作り」。教会は罪を量産しているんですね。

 そして、そういう相談メールに対して、「それは罪ではありませんよ」というお返事を、聖書を引用しながら根拠を説明して返信するということを、私はずっとやってきたわけです。

 教会が「それは罪だ」と言うのは、言う方は自分を正しい側に置いて、正しいことを言って何が悪いと思って、それで自分で納得しているかもしれませんが、言われた方は、それはありのままの自分の存在そのものを否定されたことになりますよね。「私がここに生きている」という現実を土足で踏みにじられる。しかもそれが「神」という絶対者による裁きだと言うんですから、もう自分の存在、自分の命を絶対的に否定してかかってきているわけです。つまり「死ね」と言われているのと同じです。

 ですから、私がやってきたことは、教理や教義ではどうとか、学問的にはどうとか、そういうことはとりあえず差し置いて、とにかく「それは罪ではないし、あなたは罪人ではない」ということを伝える、つまり「あなたは生きていてよいのですよ。あなたが生きることを神さまは望んでおられるんですよ」というメッセージを、とにかく発信すること。それが自分のネット教会の使命なのだと思ってやってきました。

▼離婚にまつわる罪意識

 この間の私の相談業務というか、奉仕の中で寄せられてきた質問で多かったのは、大きくは3つの種類に整理されるものであったと記憶しています。

 1つは、「離婚は罪ですか」というもの。

 2つめは、「同性愛は罪ですか」というもの。

 3つめは、「婚外交渉は罪ですか」。つまり、結婚している相手以外の人と性的は関係になってもいいですか、ということですね。

 こうして並べてみると、いずれも性や家族といったものと関連しているという共通点が見て取れます。

 離婚というのは、神さまの前で「一緒に生きていきます」という約束をしたのに、それを守れませんということですよね。神さまの前でした約束を破るわけですから、これは神に対する反逆、神への冒瀆だろうというわけですよね。実際、離婚をきっかけに教会に行けなくなった人はいます。それも、教義として離婚を禁じているカトリック教会はともかく、そうでないプロテスタント教会でも、「離婚はダメだとイエス様が言っているから」ということで、教会の人たちの白い目に耐えかねて、教会にはとても行けなくなってしまった、という人がいます。

 イエス様が離婚を禁じているというのは、マルコによる福音書10章1節以下と、マタイやルカの並行記事にあります。ここにある「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マルコ10.9他)という言葉は離婚を禁止しているじゃないかというわけですね。

 これに対して私は、イエスが生きていた頃の離縁と、現代の私達の離婚とは、全く文脈も実態も違うということ。離縁するということは、女性の方が一方的に生活の基盤を失って路上に出ることを意味するのであって、イエスの真意は、そのようにして女性を一方的に生活の困窮に追い込むことへの憤りだったのであろうと。

 そして、このイエスの憤りは離縁の危機に陥っている夫婦に向けられたものではなくて、「どうすれば離縁できるか、ああすれば離縁できるか」と、女性の生活困窮者のことなど心の片隅にも無いまま、男が離縁できる条件について興味本位で論議をしている人々に対するものだったのだ……というようなことを懸命に説明して、「イエスがもし、崩壊してしまったあなたがた夫婦の関係の有様を見て、形の上だけで仮面夫婦を続けてゆきなさいと言われると思いますか?」といったお返事を書いていました。

▼同性愛にまつわる罪意識

「下世話なQ&A」『キリスト教では同性愛はいけないんですか?』のページ

 次に、同性愛にまつわる罪意識。これも「聖書に同性愛者は死ぬべきだと書いてある」と言って、平気でLGBTQに「死ね」と言ってはばからない人たちが、今も昔もいますよね。

 もっとも、20年前は「LGBT」という言葉さえも、少なくとも日本では、使う人もまだほとんどいないという状況でした。まあ、せいぜい「セクシュアル・マイノリティ」という言葉が使われていた、ぐらいの時期です。

 そんな中で、「キリスト教では同性愛はダメなんですよね?」というQ&Aを「下世話」に上げて、「ぜんぜんオッケーです」とお答えしたものですから、これも反響が大きかったです。

 案の定、苦情や抗議のメールが来ました。「お前のサイトはこのような問題で検索するとすぐヒットする。非常に困る、迷惑だ」から始まって、もちろん「地獄で火に焼かれろ」みたいなのもありました。

 けれども、「本当にダメじゃないですよね?」というメールも何通も頂戴しました。

 私は、この「下世話」の中で、問題とされている聖書の箇所、創世記における「ソドミー」という言葉の問題とか、レビ記に書かれた男同士の性交渉についての記事などを取り上げました。詳しくはサイトを見ていただければわかりますが、簡単に要約すると、自分の娘を「どうぞ強姦してください」と言って差し出すような父親については目を瞑って(創世記19.8)、その父親がその自分の娘たちと近親相姦して子どもを作るのもOKで(同19.36)、なんで男同士の性交渉だけはダメと言えるのか。

 あるいは、レビ記で「女と寝るように男と寝てはならない」という律法は守らなくてはならないと主張するんだったら(レビ18.22、20.13)、申命記に「反抗する息子は殺せ」と書いてあるけどどうするんだとか(申命記21.21)、娘が結婚した時には、処女を失った時に血が出るから、その時の血に汚れた服を取っておいて、必要なときにはいつでも見せることができるようにするんですかとか(申命記22.17)。

 まあ要するに、これは爽歌*sayakaさんもTwitterで言ってますけど、「同性愛禁止するなら豚食うな」ってことですよね。都合の悪いところは調子よくスルーしておいて、ホモフォビアだけはちゃんと聖書で正当化する。その欺瞞的な聖書の読み方どうにかしなさいよということです。

 他にも、パウロのローマの信徒への手紙で禁止されているのは、神殿娼婦や神殿男娼との関係ですよとか(ローマ1.27)、第2コリントや第1テモテで「男色をする者」というのは、強制的に誘拐されてきた少年を売り物にする売買春のことなんですよとか(1コリント6.9、1テモテ1.10)。色々説き明かしました。

 そうやって、聖書に使って人を「罪だ」と言って裁くことのほうが罪深いのだということを、口を酸っぱくして何度も訴えてきました。

▼婚外交渉にまつわる罪意識

 そして、3つ目に婚外交渉にまつわる罪意識。

 新約聖書にはヨハネによる福音書に姦淫の女とイエスの話があって(ヨハネ8.1-11)、イエスは姦淫の現場で捕らえられた人を裁いてはいませんよね、だからあなたは裁かれませんよというだけでは済まない問題があります。

 というのはですね、離婚に関しては当事者同士の問題、まあ当事者同士も傷つきますし、子どもがいた場合など、そう単純には問題は解決しませんけど、もうすでに結婚生活の内実が壊れてしまっている人については、離婚したほうがいいんじゃないかというケースもあるわけですから、離婚そのものが倫理的にどうこう言うような話ではないだろうと思うわけです。

 また、セクシュアル・マイノリティについても、本人が例えば同性愛者であるということが、それだけで誰かを傷つけるわけでもなんでもないわけで、本人には何の問題もありません。むしろ問題なのはホモフォビアを信仰で正当化しているキリスト教会の方でしょう。

 ところが、婚外交渉、つまり姦淫については、そんな風に私は割り切れなかったんですね。

 確かにヨハネ8章の姦淫の現場で捕らえられた女性を、イエスは裁きません。そして、イエスが最後にこの女性に言った、「これからは、もう罪を犯してはいけない」という言葉も(ヨハネ8.11)、「もう次からはしないようにね」という優しい言葉であると受け取ることもできます。

 そして例えば、もし再びこの女性が姦淫の現場を取り押さえられてしまったとして、そして再びイエスがその場に居合わせるようなことになったとして、「あの時、もうするなと言っただろう!」とイエスが怒り出すかといえば、そういうことはないと思うのですね。

 またイエスは、「もう次からはしないようにね」と言って、この女性を行かせたと思います。何度捕まってもそうです。無限の赦しを説くイエスですから。

 もちろんその一方で、イエスが純粋な一夫一婦的な愛の関係を大事にしていた面もあると思われるんですね。例えば、マタイによる福音書の山上の説教の中でイエスは、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と言っています(マタイ5.28)。そこで目をえぐり出せだの、手を切り落とせだと言っています。姦淫になっていないような男性の欲望さえも、「それは姦淫だ」と言ってしまうような、そういう潔癖さもイエスは持ち合わせています。

 ですから、私は「下世話なQ&A」では、姦淫という行為で神やイエスに裁かれるということはない。けれども、決しておすすめするような行為ではないですよと、多少歯切れの悪いコラムしか書くことができませんでした。

 そもそも、この世の法律の基準から言っても、離婚は犯罪ではないし、セクシュアル・マイノリティであることも犯罪ではありません。しかし、不貞行為を行った配偶者は少なくとも家庭裁判所ではその責任を問われますし、賠償金なり解決金を支払うことを求められます。

 やはり、婚外交渉をした人は、一時はパートナーシップを結んだ相手に対して、大きな精神的損害を与えてしまうわけです。明らかに相手を大きく傷つけるであろう行為を、「それは罪ではありませんよ」と簡単に言うことは私にはできませんでした。

 しかし、その一方で、ポリアモリーの人たちの主張もあります。

 例えば、結婚している当事者同士が互いにポリアモリーで、不特定多数の相手との性交渉についても、お互いに何の問題も感じていない関係だったら、それはお互いに相手を傷つけることも、裏切りでさえもない。全くお互いの尊厳を傷つけないですから、それは罪とは言えないなと思うわけです。

 そこまで来て、私は、キリスト教会に根強く残っている、異性愛者による1対1の結婚のモデルに、まだまだ縛られているんだなということに気付かされるわけです。

▼キリスト教会の婚姻モデル

 離婚の問題にしろ、LGBTQの問題にしろ、婚外交渉の問題にしろ、それをキリスト教会が「罪だ」と言っているその根底にある基準は、異性愛者の一夫一婦制の結婚が1つの模範解答になってしまっていて、それだけが正しいという思い込みなんですね。

 離婚というのは、1対1の結婚こそが神の前になされたパートナーシップだから、それを破るのは罪だと言われるわけですよね。

 LGBTQというのは、(LGBTQという5つのアルファベットだけで表現するのは非常に暴力的なくくり方ではありますけれども、それも異性愛者の1対1の婚姻のモデルを破壊すると脅威に感じる人たちが、躍起になってその存在を否定しようとするわけですよね。

 そして、婚外交渉というのも、1対1の契約結婚のモデルから逸脱する行為なので、それもキリスト教会は全力で否定してきます。

 キリスト教会において、人と人が愛し合って、一緒に助け合い、支え合いながら生きてゆくということを思い浮かべる時、結局根底にあるのは、異性愛者の一夫一婦の婚姻関係でしかないわけです。

 これは、たとえばアセクシャルの人は排除されてしまいますし、あるいはストレートであったとしても、誰かとパートナーになることもなく、独りで生きる人生を選ぶ人についても、どこか異端視するような空気を造ってしまう原因にもなっています。

 人間というのは、男性と女性が一対でパートナーシップを結んで生きてゆくもんなんだ。それが標準なんだという基準。それがどこに由来するのか。

▼創世記における一夫一婦モデル

 まず、おそらくどなたでも思い浮かぶと思うんですが、旧約聖書の創世記の1章27節に、人は「男と女に造られた」と書いてありますよね。これは確か、ノアの方舟の物語のほうでは「オス」と「メス」という日本語に訳されている言葉であったと思います。英語で言えば“male”と“female”。人はオスとメスに造られたと書いてあるわけです。つまり生物学的性別、つまりセックスで2つに分けられると言っているわけです。

 創世記の2章のほうの創造物語では、人が自分のあばら骨から造られたもう1人の人に対して、「これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」と言っていますよね(創世記2.23)。こちらのほうは、英語で言えば“man”と“woman”で、日本語に直せば「男性」と「女性」という言い方になるでしょうね。これは、言ってみればジェンダーで2つに分けられると言っています。

 しかし、セックスという基準であれ、ジェンダーという基準であれ、いずれにしろそれは2つの区分しかないと言っているわけです。そしてその組み合わせは一対なんだという概念は、アダムとエバが1人と1人の組み合わせだったこと、ノアの方舟に乗せてもらえた動物たちも、みんな2匹ずつのつがいだったことなどで、人のパートナーシップは1対1の組み合わせ以外には考えられないというモデルが示されているんですね、少なくとも天地創造の物語においては。

 ところが、同じ創世記でも、カインとアベルの次の世代から、レメクという人物が2人の妻を娶ったと書いてあります(創世記4.19)。これが聖書に書かれた最初の一夫多妻です。

 そして、アブラムとサライの物語では、子孫を残すためには夫は妻以外の女性と関係を持ってもかまわないという発想が表れてきます。

 アブラムとサライの間に子どもが生まれないので、サライが女奴隷ハガルを夫アブラムに差し出す場面が創世記の16章に描かれています。これは今で言う代理母、代理出産ですね。奴隷の産んだ子どもは主人の子どもとして扱われます。

 ここでは、一応、アブラムとサライは一夫一婦のパートナーですけれども、子どもを産んで民族を繁栄させなくてはならないという目的のためには、女性の奴隷の子宮でも使え、という発想がここに見られます。性交渉という意味では、その相手は正式な妻でなくても、奴隷であれば

所有者である正妻と子どもを作ったということになるんですね。

 更に、アブラハム、イサク、ヤコブと読み進めてゆきますと、ヤコブの結婚の場面が創世記の29章に表れます。ヤコブはラケルと結婚したいのですけれども、おじのラバンに騙されて、ラバンの娘の年上の方のレアと、年下の方のラケルとの両方と結婚させられますよね。もうここでは一夫多妻は当たり前になってきています。

 これ、実際にはこの族長たちの物語のほうが、こうして文章に書かれるよりもずっと昔からの口伝えの伝承で、これらをまとめて、一夫一婦的な天地創造の物語を書いた人たちのほうが後の方で創世記を編集していますので、この婚姻ということに関して言えば、一夫多妻の方がイスラエル民族の昔からの風習で、後からの編集者のほうが一夫一婦に修正したと考えることもできると思います。

▼新約聖書における一夫一婦モデル

 新約聖書の方を見てみれば、一夫一婦制のモデルとされているのは、何と言ってもイエスの両親、マリアとヨセフではないでしょうか。イエスは神の子であり、マリアは「テオトコス」すなわち神の母であり、その夫ヨセフも聖人です。この3人を「聖家族」と言いますよね。聖なる家族は、1人の夫、1人の妻、そしてその間に生まれる子どもという、これはこれで三位一体に似た構造を作っています。

 マリアの天使ガブリエルに対する従順さが、長らく従順な女性像を作ってきたということを指摘する説もあるようですが、その従順な妻を力強く守る夫という聖家族の夫婦のモデルが、長い歴史を通じてクリスチャンの理想の家族像を作ってきたことは間違いないと思います。

 そして、ダメ押しは、テモテへの手紙(一)の3章だと思われます。

 「『監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。』ですから、監督は非難されるところがあってはならず、一人の妻の夫であり……」と書いてあります(1テモテ3.2)。

 「一人の妻の夫であり」と書いてあるということは、実際には2人以上の妻がいる男性も当時いたのでしょうけれど、監督つまり教会の指導者になる人物は、妻は1人でなくてはならないと言っています。ということは、たとえ全員が監督になるというわけではなくても、クリスチャンは結婚していることが理想であり、一夫一婦は更に理想的である、と言っているわけです。

▼異性愛者をも幸福にしない家父長的体質

 こうやって、人がその後半生を共に過ごすのは、1人の異性のパートナーであるという価値観が、クリスチャンたちの内面に刷り込まれてきました。

 そして、このモデルが現代に至っても、クリスチャン・ホーム幻想とか、牧師の家族に対する幻想とか、そういったものに結びついていますし、その一方でホモフォビアが自分の差別性を正当化する根拠として用いる。そういうかたちでこのモデルを利用しているのではないかと思います。

 キリスト教会はこの一夫一婦の婚姻モデルに当てはまらない人間の生き方や人間同士の関係を、「罪」という言葉で一刀両断してきたのではないでしょうか。そのような体質のもとで、今で言うLGBTQの存在は無いものとされてきましたし、離婚者もポリアモリーも罪人扱いされてきましたし、独身者・単身者も一人前のまともな人間ではないという扱いを受けてきたわけです。

 その一方で、この婚姻モデルは、異性愛者も幸せにしているというわけでもありません。この婚姻モデルは、もとをたどれは男性を中心にした一夫多妻の時代から、家父長的な体質はそのまま受け継いでいるからです。夫が家庭の中心であり、それに妻が従順に仕えるという。

 さきほど参照したテモテへの手紙一には、2章の最後に悪名高き例の記事がありますよね。「女は静かに、あくまでも従順に学ぶべきです。女が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです」(1テモテ2.11-12)

 この言葉に続いてこの手紙の著者は、アダムからエバが造られたのだから、と先ほどの創世記の創造物語を引用します。そして、「女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保ち続けるなら、子を産むことによって救われます」と書いています(1テモテ2.15)。これは、家父長的な体質が最高潮に達しているような記事ですよね。

 こういう家父長的な婚姻モデル・家族モデルが、異性愛者、そしてその中でも異性愛者の男性を幸福にしているかというと、必ずしもそうではないんですよね。

 配偶者に対して暴力的な支配をする、あるいは自分以外の家族を圧迫している男性は、自分でその暴力性に気づいていない場合も往々にしてありますが、例えば気づいていたとしても、それをやめることができない泥沼にハマっている人も少なくはありません。

 家父長的な、暴力的な婚姻モデル・家族モデルの中に育ち、そのモデルしか知らずに育つので、「これではダメだ」と思っていても、他の生き方が見つからないまま、自らの暴力性を止められないわけです。

 そうして自分のパートナーを痛めつけ、パートナーとの関係も破綻させ、それこそ婚外交渉に慰めを見出す場合もあるでしょうし、離婚してしまう場合もあるでしょう。

 異性愛者の婚姻が幸福なものかというと、決してそうではありません。むしろ、家父長的な体質を引きずっているだけに、実は同性愛者の婚姻よりも不幸になっているカップルも多いのではないかと思います。

 キリスト教会は、そのような外側の現象をとらえて、「それは罪なのか、罪でないのか」と他人事のように裁いたりはしますが、本当に問題なのは、形の上で何が罪であるか、ないかではなく、自分と他者との関係が本当に内実の伴った、愛に満ちた関係になっているかだと思うのですが、いかがでしょうか。

▼「罪」からの解放を目指して

 聖書における「罪」という言葉は、ヘブライ語の「ハッタート」であれ、ギリシア語の「ハマルティア」であれ、「的外れ」、「的を外す」という意味であることは、よく知られていることだと思います。

 私は、「人のあるべき姿はこうだ」という思い込み、刷り込み、モデルには当てはまらない人のことを「罪だ」と裁くこと自体が、「的外れ」だと思います。

 私のネット教会に寄せられてきていた問い合わせのメールは、キリスト教会から「罪」のレッテルを貼られて苦しんでいる人の「被害届」のようでした。

 教会の多くの人たちは、自分たちが刷り込まれてしまった婚姻モデルこそが人間関係の根底にあるべきものなんだという思い込みを全く疑うことなく、その基準に当てはまらない人を「罪だ」と言って切り捨てようとします。

 けれども、そうやって人のことを「罪だ」と裁いている本人たちが、罪がないから幸せに暮らしているだろうと思いきや、そうではないケースが案外あるわけです。自分たち自身も、その婚姻モデルを演じ続けることにかなり無理をしていて、暴力的な支配・被支配の関係をやめることができなくなっているわけです。

 何を何のためにやっているのかわからない。この状況を「的外れ」と言わずして何といいましょうか。自分たちも問題だらけなのに、自分たちと異質な人の方が問題だといって「罪だ」のラベルを貼ろうとする。この「的外れ」な言動のほうが、むしろ余程「罪」なのではないかと、私は思います。

 まさに、人間が善悪の知識の木を食べるべきではなかったということなのだろうと思います(創世記2.17)。人が善悪を判断し、何が罪であるかないかを判断することはやめたほうがいい。

 本当に大切なことは、私たちが誰かと一緒に生きるにしろ、独りで生きるにしろ、あるがままのあり方、生き方を、愛情を持って認め合い、必要に応じて助け合うことなのだという、単純な結論に至るのではないかと思います。

 そのことによって、断罪される側はもちろん、断罪する側も「罪」=「的外れ」から解放されてゆくのではないでしょうか。

▼おわりに

 最後に、再びネット教会に関連するお話に戻って終わりにしたいと思います。

 私が開いていたiChurch.me:三十番地キリスト教会というネット教会は、20年前には先駆的であったというお話を冒頭にしました。しかし近年では、もう色々な人がウェブサイト、Twitter、ツイキャス、YouTubeなどで発信しています。キリスト教に関する情報や意見を発信すること自体のハードルが非常に下がっています。

 私がさきほどまでお話してきたような問題については、もうそれに対する答えが洪水のように溢れていますし、また「誰に聞けばどういう答えが返ってきそうだ」ということも、日本国内では大体面が割れているという状況ではないでしょうか。

 そういう意味では、さほど目新しくもなくなってきましたし、この情報の氾濫の中で見つけられにくくなってきていることも確かなので、そろそろ私の役割も終わりかなと感じています。

 それに、私がやってきたことも、「何は罪だ」、「何は罪ではないのだ」という論争に終止していたという批判は免れません。もちろんそういう論争が必要だった時期もあったと思います。

 しかし、もうこれからは、どうすれば断罪されてきた側も、断罪する側も本当の意味で自分の生涯をどう喜んで生きることができるのかということを、互いに学び合うような方向になっていかないと、我々はどこにも進めないという気がします。

 もうひとつ思うことは、このような情報の洪水、情報の氾濫の中で、ネットにつなぐことさえできれば、誰でも簡単にキリスト教についての言説に触れることができるようになりましたが、ネットで気軽に、ある意味無責任な情報を発信するのではなく、じっくりと地道に研究を続けている人に、もっと私たちは注目しなければならないと思います。

 特に、この20年ほどの間に、クイア神学の研究者の層が少しずつ少しずつ厚くなってきて、今や「クイア」という言葉が珍しいものではなくなりました。

 まだ充分日本のキリスト教会の中で市民権を得ているとまでは言えませんが、それでもしっかりと、その分野での学びをしている人が日本でも表れてきています。

 そのような研究者がやがてもっと表立った研究成果をきちんとした書籍で出版し、それを学んだ人が改めて、専門家ではない人に向けたわかりやすい情報を提供してゆく。今はその過渡期ではないかと思っています。

 そういう意味で、研究者であれ、発信者であれ、次世代に人たちに大いに期待したいし、活躍の場を譲ってゆけたらなと思っています。

 どうも皆さん、ご清聴ありがとうございました。

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