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詩篇と新たな生き方への招き
先週はヨブを学びました。今週は詩篇です。詩篇は全部で150篇もあり、外典を入れると151篇もあります。その中で、たった1日、50分~1時間の学びでどこにフォーカスするか、というのは非常に難しいですが、できる限りこの「神の招き」というテーマに沿った詩篇をいくつか選んで、共に学んでいきたいと思います。
何度も言っていますが、このシリーズでは聖書のメッセージは「神様が人間を新しい生き方へと招いている」ということです。それを拒めば滅びが待っていますが、それを受け入れて、この世で神の国が実現するように働けば、多くの人に救いが訪れる、ということです。
その「新しい生き方、人間としてのあり方」は、創世記からずっと垣間見えます。暴力から非暴力へ、排他性から包括性へ、そしてここ数回で明らかになってきていますが、律法や神殿などの宗教的なランドマークから、人間の良心に基づく信仰への移行が聖書の中で見られます。
神との親密な関係
聖霊派の教会で育ったりしたら「神様との個人的な関係」というのが非常に強調されます。問題は、それがほぼ救いの定義として、救いに必要な条件として語られることでしょう。 しかし神と親密な関係を持つこと自体を否定派する必要はありませんし、 個人的に祈りの時間を設けて聖書を読んだり神様の声を聞くことは非常に良い事です。それを習慣として持っている人は教派に関わらず沢山います。その中で詩篇は多用される書です。著者(ダビデなど)の神との関係性、感情が存分に見えて来て、我々の心に響く箇所が豊富にあるからでしょう。
その中で、私たちを新しい考え方、信仰のあり方へと招き導いてくれるような詩篇もあります。ウォルター・ブルーグマンは詩篇を3つに分けています。「方向性を示す詩篇」、「方向性を見失った詩篇」、そして「新しい方向性を示す詩篇」です。これは私たち人間の思考パターンと非常に似ている。まず教えられたことを信じ、繰り返し唱えたり実践する。そして疑ったり迷ったりし、教わったことが分からなくなる。それから新しい方向性を見出していく。詩篇もそのように考えながら読むことができます。これは繰り返し人生の中で経験することです。今まで教わってきたことをベースに祈ったりしますが、分からなくなって愚痴ったり喚いたりもします。そしてその中で新しい方向性の発見も経験します。
今日は少しこのブルーグマンの考察にも言及しながら進めますが、厳密にそれに沿って詩篇をカテゴライズしていくわけではありません。でも「○○の詩篇」というふうに考えることは可能ですし、それが私たちの信仰とどう関連するか考えながら読むと、また新たな発見が得られるかもしれません。
例えば、「神との親密な関係」を語る詩篇は沢山あります。これも画期的なことです。なぜかというと、それまでは神へのアクセス権は祭司たちや王の時代には預言者たちなどの宗教エリートに限られていからです。。一般の人達は年に数回の祭りの時(ヨム・キップルなど)に大祭司を通して神の臨在を感じるか、自ら生贄を携えることで神との関係を持っているのみでした。しかし、この詩篇は、勿論本に綴られていたのではなく、そうなる前に何世代も歌われたでしょう。「ダビデの~」と言われているものも、ダビデ本人が作ったものとは思いませんが(勿論ダビデ本人によるものもあるかもしれません)ダビデの時代から捕囚時代に至るまでイスラエル・ユダヤの人々が色々の状況の中で口ずさんだものです。戦の陣営の中、畑で紡いでいる中、家で家族と共に居る間、捕囚に連れて行かれている間。そのようなときに神に呼び掛けたのではないでしょうか。そうやって、一般の人も祭司や神殿がなくても神を礼拝できる、神との関係を持つことができる、そういった概念が浸透していったように思えます。本当に美しく、私たちの心を動かすような詩篇がたくさんあります。代表的なのを一つ読みましょう。
詩篇139篇
指揮者のために。ダビデの賛歌
1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。
11 たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、
12 あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。
13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。
18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。
(ここから「方向性を見失った」状態になります!)
19 神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。
20 彼らはあなたの悪口を言い、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。
21 主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。
22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。
(少し落ち着いた状態に戻る)
23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
美しい詩篇で、神との親密さを表わす歌として取り上げられることが多いですが、全部読めば作者の感情が色々移り変わっていることが分かるでしょう。
国々への思い
もう一つ詩篇に見られる「新しい方向性」と言えば、エリヤやエリシャの例でも既にこのシリーズで見てきましたが「国々」に対する思いです。今までは、イスラエル以外の諸国は「滅ぼす敵」でしたが、そこに住む人たちも皆神に造られた被造物であるとし、その人々が皆神を褒めたたえることを願う思いが溢れている詩篇が複数あります。
詩篇22:27-31
地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。
詩篇41篇
1 すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。
2 まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。
3 国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。
4 主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。セラ
5 神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。
6 神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。
7 まことに神は全地を王。巧みな歌でほめ歌を歌え。
8 神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
9 国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。
10 まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。
詩篇67篇
1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ
2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。
3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。
4 国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばまれ、地の国民を導かれるからです。セラ
5 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。
6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。
7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。
詩篇86:8-13
主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行われる方です。あなただけが神です。主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
詩篇117篇
1 すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。
2 その恵みは私たちに大きく、主のまことはとこしえに。ハレルヤ
生贄ではなく…
さらに、真の礼拝とは何か、生贄ではなく神が何を求めるかを語るような詩篇もあります。
詩篇40:6-8はヘブル書10:5-7で引用されていますが、「生贄など要らない」という部分です。
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。
詩篇51篇も、罪からの悔い改めの詩篇ですが、「砕かれた霊」という表現を用いながら、同様のことを言っています。
呪いの詩篇
また、方向性を、神とはどのようなお方かを完全に見失ってしまった中で歌われた詩篇もあります。「神への信仰とはこうあるべきだ」「神を信じているならこのような心を持つべきだ」という固定観念を捨てて、本当にその状況の中の素直な生の感情をさらけ出しているとも言えます。中には自分に敵対する者たちに向けて非常に攻撃的な描写をするものもあり、「呪いの詩篇」などとも呼ばれます。(これを人前で祈るのは注意しましょう!)
詩篇10篇
1 主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。
2 悪者は高ぶって、悩む人に追い迫ります。彼らが、おのれの設けたたくらみにみずから捕らえられますように。
3 悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
4 悪者は高慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言につきる。
5 彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高くて、彼の目に、入らない。敵という敵を、彼は吹き飛ばす。6 彼は心の中で言う。「私はゆらぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」
7 彼の口は、のりと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。
8 彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、隠れた所で、罪のない人を殺す。彼の目は不幸な人をねらっている。
9 彼は茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せている。彼は悩む人を捕らえようと待ち伏せる。悩む人を、その網にかけて捕らえてしまう。
10 不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる。
11 彼は心の中で言う。「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」
12 主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。
13 なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか。彼は心の中で、あなたは追い求めないと言っています。
14 あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らの御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。
15 悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて一つも残らぬようにしてください。
16 主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。
17 主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、
18 みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。
他にも 「呪いの詩篇」として代表的なのは、詩篇69, 109篇です。他にも詩篇5, 6, 11, 12, 35, 37, 40, 52, 54, 56, 57, 58, 59, 79, 83, 94, 137, 139, 143篇にも「呪い」に相当する部分が含まれます。中には神の力を疑問視したり、暴力をあからさまに肯定するような箇所もあります。今の時代に教会でそのようなことを言えば「不信仰だ!」などと叱られるような内容ですね。でも、それらの詩篇は別に神の性質や御心について教えている訳ではないので、それをそのまま受け取る必要ません。 それでも著者の素直な感情の発露として正典に含まれていますので、それはそれで大切にしたいです。もう一つ、詩篇69篇も載せます。
詩篇69篇
1 神よ。私を救ってください。水が私ののどにまで、入って来ましたから。
2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。
3 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。
4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。
5 神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。
6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。
7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。
8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。
11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。
12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。
13 しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。
15 大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。
16 主よ。私に答えてください。あなたの恵みはまことに深いのです。あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。
17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
18 どうか、私のたましいに近づき、贖ってください。私の敵のゆえに、私を贖ってください。
19 あなたは私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。
20 そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。
21 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。
22 彼らの前の食卓はわなとなれ。彼らが栄えるときには、それが落とし穴となれ。
23 彼らの目は暗くなって、見えなくなれ。彼らの腰をいつもよろけさせてください。
24 あなたの憤りを彼らの上に注いでください。あなたの燃える怒りが、彼らに追いつくようにしてください。
25 彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。
26 彼らはあなたが打った者を迫害し、あなたに傷つけられた者の痛みを数え上げるからです。
27 どうか、彼らの咎に咎を加え、彼らをあなたの義の中に入れないでください。
28 彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。
29 しかし私は悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。
30 私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。
31 それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。
32 心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。
33 主は、貧しい者に耳を傾け、その捕らわれ人らをさげすみなさらないのだから。
34 天と地は、主をほめたたえよ。海とその中に動くすべてのものも。
35 まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分の所有とする。
36 主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。
新約の中の詩篇
では新約聖書では詩篇はどのように扱われているかを見ましょう。詩篇は新約で多用されています。
しかし、「呪いの詩篇」と呼ばれる詩篇からの引用は非常に少なく、僅かに引用されている部分も、不当行為への抗議として使われていますし、中でも敵への暴力や破滅を直接的に描いている箇所が省かれていることが多いです。例えば、詩篇110篇と、それが新約で引用されている箇所を比べてみましょう。
詩篇110
1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」
2 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真ん中で治めよ。」
3 あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
4 主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
5 あなたの右にいます主は御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。
6 主は国々の間をさばき、それらをしかばねで満たし、広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。
7 主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。それゆえ、その頭を高く上げられる。
詩篇100篇は、1節は次の箇所で引用されています:マタイ22:44; マルコ12:36; ルカ20:42, 43; 使徒2:34, 35; ヘブル書1:13。また次の箇所でも仄めかされています:マタイ26:64; マルコ14:62; 16:19; ルカ22:69; Iコリント15:25; エペソ1:20; コロサイ 3:1; ヘブル書 1:3; 8:1; 10:12, 13; 12:2; Iペテロ 3:22。
また詩篇110:4もヘブル書で引用されているが、その他の部分、暴力的な描写を含む部分は、新約では全く引用されていません。このように、詩篇にもこのシリーズで見てきたような新しい人間としてのあり方へ導く神様の手があり、その新しい世界・神の国と、古いあり方とのテンションも見られます。
「肉」VS「霊」
新約聖書の中にしばしば出て来る「肉」と「霊」の戦いを取り上げたいと思います。まず使徒パウロの言葉で、ガラテヤ5章からです。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
ガラテヤ書5:16-26
ここでは、こっちを十分すれば天国に行く、不十分だったら、或いは逆のことをやりすぎたら地獄、ということを言っているのではありません。共に神の子どもとしてそういう生き方を目指そう、共に支え合おう、ということです。それが信仰であり教会ですから。私たちの周りがそうやって少しでも「神の国」へと変わっていくようになったら素晴らしいですよね。でもそういった「霊」と「肉」の緊張・せめぎ合いは、人生を通してずっとあるのです。この世界を見渡せば至るところにあるのです。それは聖書の中でも同じで、生身の人間が自分たちの経験から、そのようの「霊肉の葛藤」素直に心を注ぎ出して歌っているのが、詩篇の大きな特徴ではないでしょうか。
最後に、ルカの福音書にあるイエスの言葉に注目したいと思います。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。
ルカ24:44-53
イエスは福音書の中で「聖書には自分について書かれている」という趣旨のことを似た表現で何度か言っていますが、そこに「詩篇」を加えているのはここだけです。イエスによれば、詩篇も自分について語っている、とのことです!何も詩篇を掘り下げて「ほら、ここにイエスがいる!」みたいな読み方を私たちにの全でいるとは思いません。そうではなく、詩篇も聖書の他の部分と同じように、「肉」の力、つまり人を敵視し、自分の利益のために犠牲にするように仕向け、そのような罪に私たちを陥れ、神の国から遠ざけてしまうような罪の力と、そのような生き方から離れ、人をその地位や出自に関係なく包摂し、犠牲を生まない新しい世を築く「霊」の力の対立を詠っているのです。そして最後には、愛が勝つのです。イエスは「肉」の力によって殺されましたが、「霊」の力によって復活を得、「神の御国」を描くイエスの教えこそが正しい人類のあるべき姿であることを、神は証されたのです。その証が、旧約聖書の中にも至るところに散りばめられているのです。
教会の賛美の中で詩篇の言葉を歌ったり、それぞれの祈りの時間で詩篇を唱えたりする中で、是非そのことを覚えたいです。そうして、それぞれの祈りやディボーションの時間が、より豊かに、より恵まれたものになるように願いたいですね。
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