神の招き『放浪から王政へ』振り返り

9月3日ツイキャス  https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/638566086

8月はヨシュア記、士師記、ルツ記から幾つかのエピソードを取り上げ、イスラエルが荒野での放浪からカナンの地に入ってから、周辺諸国と同じような王政になる前の時代を見ていきました。その中で、人間社会の恐ろしさや残虐さが露わになりますが、その中でも聖書は人間を新しい境地、より良い社会のあり方、神の御心にかなう生き方へと招いていることも垣間見えたのではないでしょう。

ギョーム・ド・マショーとユダヤ人の虐殺

本シリーズで取り上げている聖書の「人間論」は、フランス人人類学者のルネ・ジラールの影響を強く受けています。彼は著書『身代わりの山羊』の中で、14世紀にヨーロッパで流行した「黒死病」と呼ばれたペストについて、フランス人の詩人だったギョーム・ド・マショーが書いた文を取り上げます。

「空にしるしがあらわれる。石が雨のように降り注ぎ、生あるものたちを叩きつぶす。雷がいくつもの町を完全に打ちこわす。ギョームの町――彼はそれが何という町なのかを語ってはいないが――でも、多数の人間が死んでゆく。そのうちのいくつかは、ユダヤ人とキリスト教信者のあいだにもいた彼らの仲間たちの悪意にみちた仕業のせいである。彼らはどんなふうにして。町の住民に広汎な害をおよぼしたのだろうか。河や飲水を供にする泉に毒物を投げこんだのだ。天の正義が悪行の張本人が誰であるかを明らかにしてくれたので、住民は彼らを皆殺しにして、秩序が戻ってきた…(ここまではジラール自身のナレーション)

…『そののち、嘘つきで裏切り者で背教徒の唾棄すべき連中がやってきた。それは善を憎み、あらゆる悪行を好んだ、不誠実で邪悪な呪われたユダヤ人たちであった。彼らはキリスト教徒たちに多くの金額を与え、また約束したので、この者らは清らかで清潔であった多くの井戸や川、泉に毒を仕掛けた。そのことから多くの人が命を失った。なせならその水を使った者はすべてすぐさま死んだからである。そのおかげで、この致命的な出来事が発覚する前に、田舎でも町でも確実に十万の十倍もの人々が死んだ。

しかし高所に座を占め、遠くを見通し、すべてを支配し、すべてを保護したまう方は、この裏切りが隠されたままであることを望まれず、その反対に、それを明らかにされ、あまねく知れわたるようにされたので、彼らは身体と財産を失った。今やあらゆるユダヤ人は、ある者たちは絞首刑で、他の者たちは火刑で、ある者は溺死刑で、他の者は斧ないし剣で首を斬られ、殺された。そして(彼らから金をもらった)多数のキリスト教徒も同様に、恥辱にまみれて死んだ。』」

(身代わりの山羊、pp1-4)

これを読む時に、我々現代人はこの中のどの部分が真実で、どの部分がでっち上げ、或いは著者の認識がずれているのかは容易に分かります。伝染病で何十万人もの人が亡くなったこと、またその時にユダヤ人とユダヤ人と近しい関係にあった一部のクリスチャンが、毒を井戸に入れたという罪を着せられて虐殺されたことは事実です。しかし、実際にユダヤ人たちが井戸に毒を入れたことや、神の罰として彼らが正当に処刑されたというのは、マショー自身が当時の加害者側のナラティブで書いてしまっているということも分かります。

では、聖書を読むときはどうでしょうか?我々は歴史上の出来事に関する記録を読む時は「これは本当にあった」「これは著者の歪んだ認識」というふうに分けて考えられるのに、聖書になると「全部神の言葉」という呪文のせいで、そのような読み方ができなくなってしまっているのです。

1週目で取り上げたアカン一家の処刑とアナニアとサッピラの死の二つの物語が良い例です。「そのままの事実」として受け取るには不可解な記述が多すぎます。
・誰かが分捕り品をこっそり盗んだから戦争に負けた?
・神にお伺いを立てているのに誰が盗んだかを知るのにくじ引きが必要?
・盗んだのは本当に一人だけ?
・なぜ家族も一緒に殺される?
・献金額を偽っただけで「聖霊を冒涜」で二死体?

このように、どちらの話も普通に考えればおかしい部分があります。しかし、アカンの話では、実際には盗んではいけない分捕り品が盗まれて、勝てる筈だった戦争に負けて、誰かが見せしめに殺されたのでしょう。そのように、ギョーム・ド・マショーの黒死病に関する記述同様、より合理的な物語を紡ぎ出すことが可能なのです。アナニアとサッピラの話でも、教会が求めていた献金のやり方から外れた人たちがいてもめごとになったことはあったでしょう。

しかし、教会から多くのクリスチャンが教えられてきた聖書の読み方では、理不尽な殺され方をした犠牲者は、聖書の「霊感説」に整合性をもたせるために、さらに犠牲にされるだけでなく、その人たちが悪かったという筋書きがさらに強化され、殺害行為が「神が命じたから」というだけの理由で正当化されるのです。それが聖書の多くの箇所で示されている神の倫理的な規範に明確に違反しているにも関わらず。物を盗んだり、献金額を偽ることは、律法でも死罪には値しませんし、ましてや連座制で家族も焼き殺されるというのは、罪を起こした者だけが罰せられるという律法の文言に明確に違反しています(申命記24:16など)。

よく、アカンの話やアナニア・サッピラの話を「アカン一家やアナニア・サッピラがスケープゴートにされている話」として紹介すると、聖書を一字一句神の言葉だと信じるクリスチャンから猛反発を受けますが、これらの話をそのまま書いてある通りに受け取ることを困難にさせているのは、他でもない聖書の教えなのです。

スケープゴートの実態を暴く聖書

聖書は、人間が隠そうとしているスケープゴート行為、つまり社会の秩序を守る為に行われるリンチ殺人の実態を暴くカギをたくさん与えてくれています。その最たる例が、キリストの十字架です。イエスはこのように言いました。

おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

マタイ10:26-27

キリストの死が福音書の著者たちによって「スケープゴート」として認識されていることは既にこれまでに何度か見てきました。つまり、聖書は我々にスケープゴートの実態を教えてくれているのに、逆にそれを見えなくするような読み方が教会の中で浸透してしまっているのは非常に残念なことです。

私たちは今の時代に生きてて、性差別や人種差別はダメなことだと分かっています。社会的に抑圧したり暴力的な扱いをしたり、災害や疫病の際に特定のグループに根拠もなく責任を押し付けて虐殺することで社会秩序を維持するのも著しく不道徳的なことだと分かっているはずです。なのに、なぜ聖書でそのようなことが起きている場合には、あれこれ理由を付けて聖書の記述を正当化し、そこには不当に抑圧され、搾取され、殺害されている被害者がいることに目を留めないのでしょうか?

また、そのような読み方は、教会が社会問題にどう対処するかにも直結します。なぜなら、社会秩序を維持するために都合の良い被害者を選定してスケープゴートにすることは、人間の社会的DNAの一部であり、古今東西ずっと行われてきたことだからです。それこそが聖書が示す「人間論」です。聖書の中でそれに気付かず、あれこれ形而上学的な理由を付けて殺害や抑圧を正当化する人は、社会においても加害者側が書き上げたストーリーをそのまま受容してしまいます(ギョーム・ド・マショーのように!)。

だから、生身の人間を差し置いて聖書を絶対化するような読み方は、単に論理的矛盾に陥るとか、科学的・歴史的整合性が取れないだけでなく、倫理的・道徳的にも非常に危険な読み方なのです。それは、サタン的だとさえ言えるでしょう。ヨハネの福音書では、聖霊は「パラクリート」(助け手、弁護者)と呼ばれていますし、この世の誤りを認めさせる働きがあると教えられています(ヨハネ16:5-11)。なので、もしその聖霊の働きに逆行するような読み方をしているなら、その行き着く先は神の国ではなく、サタンの国であり、破壊と絶望なのです。

『宗教』と『啓示』の読み分け

だからこそ、聖書を読む時、そのような生々しいスケープゴート行為をそのまま当然のように描いている「宗教(神話)」の部分と、それが「この世の誤り」であり、不当で残虐な行為なのだと教え、スケープゴート行為の実態を暴いてくれている「啓示」の部分に読み分けることが大切です。ヨシュア記はアカン一家の処刑を神のお墨付きで行われたかのように書いています。明らかに「宗教」の部分です。士師記には19章には女性が夫によって暴徒たちに渡され、一晩中暴行を受けて死ぬおぞましい物語が出てきます。これも「宗教的」な人間のあり方を生々しく伝えています(ただし著者はその虐殺行為を神のお墨付きで正当化させてはいません)。逆に、ルツ記には「啓示」と言える部分が多分に含まれています。

来週からは、ダビデとソロモンにまつわるいくつかの話を取り上げます。10月はソロモン以降の王たちの話を取り上げ、その後にヨブ記や詩篇やその他の「知恵文学」と呼ばれる書物を見てから、預言書の学びに入っていきます。その中でも「宗教(神話)」の部分と「啓示」の部分が複雑に入り混じっていますが、是非アンテナを張って、共に読み分けていきたいと思います(この部分は「宗教」、この部分は「啓示」という判断に所為回答がない場合も多いですが)。また皆さんが個人で聖書を読む時間でも、そのような認識のもとで聖書を読んでみてはいかがでしょうか。

では、また共に聖書の学びができることを楽しみにしております!

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