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「知性を尽くして」
今日とりあげる「ソロモン文学」と言われるいくつかの書物の中心的なテーマは「知恵」です。これは、論語や孫子みたいに徐々に発展していった古代からの考えが、ある時期に王室の書記たちによって集約され編纂されたものと考えられます。ところで、イエスが「第一の戒め」として唱えた律法の一文を再度確認したいと思います。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
マルコ12:30
ここで「知性」が出てきますが、これは元の申命記の「シェマ」(イスラエル人が繰り返し唱えていた命令)と呼ばれる箇所にはありません。「心」「精神」「力」はあるのですが、「知性」はなく、イエスが追加したものと考えられます(他の経緯でシェマに加えられた可能性もありますが)。イエスは「知性」を非常に重要視したということです。
これらの書物の著者とされている「ソロモン」という人物は、ソロモン文学の著者という意味では「伝説」の人と考えた方が良いでしょう。実際にソロモン王という歴史上の人物がいたことはほぼ間違いないと思いますが、彼にまつわる多くの「知恵」に関する話の多くは創作であり、後に発展していった知恵文学を、イスラエル王国の絶頂期に統治していた王に結び付けることで、これらの知恵文学は権威を帯びていったのでしょう。私は高等批評の観点からこのように考えていますが、保守的な聖書観に立つ方々が「いや、すべてソロモン王が書いたのだ!」と信じたとしても、特に何ら問題はないと思われます。
ソロモン文学に含まれる書物は箴言、雅歌、伝道者の書、それから外典(旧約聖書続編)にある知恵の書です。この中から今回の学びでは箴言、伝道者の書、知恵の書を今日は取り上げます。
まず箴言からいくつかの箇所を取り上げ、このシリーズの大枠の「神の招き」のテーマにどう繋がるかを考えていきたいと思います。まずは3章からです。
わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
箴言3:1-6
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に好意と聡明を得よ。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言のテーマは当然「知恵」ですが、知恵は神から来るものであることで、神に頼った上での知恵というのが大前提ですね。神を無視して自分の知恵に頼るのは、逆に破滅を招くということは、箴言の多くの箇所で述べられています。
知恵の擬人化
箴言の興味深いところは、この「知恵」という概念についてひたすら述べているだけでなく、「知恵」を擬人化させ、人格を帯びたような感じで人々に語り掛けているということです。
1:20-33
知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。
「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがわたしのことばを知らせよう。わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。わきまえのない者は背信で自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」
このように知恵が擬人化されていることが分かります。また、ある歴史上の文脈では擬人化から神格化まで至ることもありました。初期のキリスト教グノーシス派は正典の聖書とは違った自分たちだけの福音書や書簡を持っていて、自分たちだけに真理が特別に啓示されたと信じていましたが、中にはイエスを「ソフィア」という名の知恵の女神から遣わされ使者だと見做す一派もあったようです。「イエスのソフィア」という名の箴言のような語録集も発見されていますが、歴史上のイエスの遡るものではなく、後世に創作された可能性が高いとされています。
しかし、福音書の中のイエスの言葉で、実際に箴言の言葉を彷彿させるようなものもたくさんあります。例えば「耳のある者は聞きなさい」と言ったり、マタイ5-7章の山上の垂訓の最後で「私の教えを聞いて実行する者は岩の上に家を建てるような人」という譬え話にも、上述の「知恵」が語っているような雰囲気が漂います。
ルカ13:34には、箴言の著者が知恵を拒む者の行く末を嘆くように、自身を拒むものを嘆くイエスの姿が見られます。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
箴言の8章では、この「知恵」が神に最初に造られたものとされていますが、それだけでなく、神と共に創造の業を行ったとも書かれています。
1 知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。
2 これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに立ち、
3 門のかたわら、町の入口、正門の入口で大声で呼ばわって言う。
4 「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、人の子らに声をかける。
5 わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。
6 聞け。わたしは高貴なことについて語り、わたしのくちびるは正しいことを述べよう。
7 わたしの口は真実を告げ、わたしのくちびるは悪を忌みきらうからだ。
8 わたしの言うことはみな正しい。そのうちには曲がったことやよこしまはない。
9 これはみな、識別する者には、正直、知識を見いだす者には、正しい。
10 銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。
22 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
23 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
26 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。28 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
29 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、
30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
これは、ヨハネが福音書の冒頭で「神と共にあり、神であった」と言っている「ロゴス」と似ていますね。こういった背景から「イエス=ソフィア(知恵)」という結びつきが生まれたのは容易に想像できます。
箴言の価値観と新約聖書
ただし、箴言には新約聖書では肯定されていないような価値観や描写も含まれているということは、しっかりと認識する必要があります。
例えば、2章や7章では、誘惑する人、知恵から遠ざける人を「姦淫の女」として描写しています。これはイスラエルの民の堕落を象徴していると考えられますが、イスラエルを知恵から遠ざけるような社会的決断を下していたのは、間違いなく男性の方が圧倒的に多いでしょう。確かに箴言では暴虐的な描写、殺人や強盗などの描写もあり、そういった箇所は男性像で表わしていますが、「姦淫の女」の描写では性的不品行のイメージを一方的に女性に押し付けています。このような描き方は知恵文学にも預言書にも沢山あります。これは当時の社会にも根付いていた強いミソジニーとして、我々クリスチャンは抵抗すべきでしょうか。
またこのシリーズでも度々あげている「因果応報」的な考えも散見されますが、そのような考え方はイエスによって否定されたということは、既に見てきました。例えば、箴言11:17-21にはこう書いてあります。
真実な者は自分のたましいに報いを得るが、残忍な者は自分の身に煩いをもたらす。
悪者は偽りの報酬を得るが、義を蒔く者は確かな賃金を得る。
このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。
心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。
確かに悪人は罰を免れない。しかし正しい者のすえは救いを得る。
これ以外には、ずっと諺のようなことが延々と独特の二段式の詩で並べられています。ここでは時間の関係上すべて取り上げられませんが、是非各自で箴言を一通り読んでみれば良いと思います。
全体として箴言のメッセージを受け取るなら「自分で考えて行動しよう、自分の行いに自分で責任を持とう」という精神が感じられます。それは「律法を守る」とか「神殿にすがる」とか「正しい神を唱える」とか「正しい民族に属する」とかではなく、それぞれ自分の心を問い正し、死に至る道ではなく、命に至る道へと歩んでいこう、ということだと思います。
伝道者の書(コヘレトの言葉)
次に「伝道者の書」、新共同訳などでは「コヘレトの言葉」と呼ばれている書を取り上げます。伝道者の書は、多くの箇所でヨブの叫びと非常に似ています。因果応報的な世界観をそのまま受け入れるのではなく、この世界の不条理について生々しく語っている箇所が多いです。1章では「知恵は結局何の役にも立たない」という思い切った宣言をします。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
伝道者の書1:3-5
一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
2章では、自分の欲を追求するのも役に立たないと良い、知恵に対しても、ないよりあった方がマシだが結局智者も愚者も同じだ、ドライに語ります。少し長いですが2:1-19まで読みましょう。
私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。
私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
私は振り返って、知恵と、狂気と、愚かさとを見た。いったい、王の跡を継ぐ者も、すでになされた事をするのにすぎないではないか。
私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。
私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい」と。事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。
私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。
5章なんかは、「不必要なことを喋るな」というメッセージが読み取れて、「誓ってはならない」を強調したイエスの律法観と似ているように思えます。5:1-6:
神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。
神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。
仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚かな者の声となる。神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことを果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。
あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。
イエスの言葉と比べてみましょう。マタイ5:33-37:
さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
また7章は、山上の垂訓の冒頭にある「幸いなるかな」の連続を思い出させてくれます。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれに心を留めるようになるからだ。
7:2-3
悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。
7:14-15はヨブ記にあるヨブ自身の訴えと酷似しています。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。
私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。
知恵の書(ソロモンの知恵)
最後に外典に含まれる「知恵の書」を取り上げたいと思います。プロテスタントの教会にずっと行かれている方で、知恵の書を読んだことがないという方も多いでしょう。知恵の書は、おそらく紀元前2世紀~1世紀ごろに書かれたと考えられています。初期のクリスチャンの思想にも大きな影響を与え、パウロ書簡など新約聖書にも知恵の書を意識した思想が見られます。
まず1-2章では、悪者の考え方や行いが描写されています。1:1-20:
彼らはこう言い合うが、その考えは誤っている。
「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知るかぎり、陰府から戻って来た人はいない。我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる。鼻から出る息は煙にすぎず、人の考えは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。
それが消えると体は灰になり魂も軽い空気のように消えうせる。我々の名は時とともに忘れられ、だれも我々の業を思い出してはくれない。
我々の一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、霧のように散らされてしまう。太陽の光に押しのけられ、その熱に解かされてしまう。
我々の年月は影のように過ぎ行き、死が迫るときには、手のつけようがない。死の刻印を押されたら、取り返しがつかない。
だからこそ目の前にある良いものを楽しみ、青春の情熱を燃やしこの世のものをむさぼろう。高価な酒を味わい、香料を身につけよう。春の花を心行くまで楽しむのだ。咲き初めたばらがしおれぬうちに、その花の冠をつけよう。野外の至るところでばか騒ぎをし、どこにでも歓楽の跡を残そう。これこそ我々の本領であり、定めなのだ。
と、ここまでは「この世を楽しもう」という純粋に人間的な描写になっていますが、ここからどんどん暴虐がエスカレートします。
神に従っているあの貧しい者たちを虐げよう。寡婦だからといって容赦しない。白髪をいただく老人も敬いはしない。力をこそ、義の尺度とするのだ。弱さなど、何の役にも立たないから。
神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。我々のすることに反対し、律法に背くといって我々をとがめ、教訓に反するといって非難するのだから。
神に従う人は、神を知っていると公言し、自らを主の僕と呼んでいる。彼らの存在は我々の考えをとがめだてる。だから、見るだけで気が重くなる。その生き方が他の者とは異なり、その行動も変わっているからだ。
我々を偽り者と見なし、汚れを避けるかのように我々の道を遠ざかる。神に従う人の最期は幸せだと言い、神が自分の父であると豪語する。それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。敵の手から救い出されるはずだ。
暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために。彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」
特に最後の方は、十字架にかけられたイエスに向けて放たれた嘲笑の言葉を思い出さされます。
3章には、旧約聖書のある箇所でも、新約聖書でも否定されている「罪は子どもにも及ぶ」という考えが見られます。
知恵と戒めとを無視する者は不幸であり、その希望はむなしく、労苦は無意味、その業も無益である。
彼らの妻たちは愚かで、子供たちは素行が悪く、彼らの子孫も呪われている。
3:11-12
8章は、箴言の8章と似ていて、知恵によって万物が造り出されたことや、知恵を愛する者について書かれています。また10-11章では、旧約聖書の歴史を追いながら、知恵が人間を導いてきたことを物語っています。
世の父として最初に造られたただ一人の人を、知恵は守り、犯した過ちから救い、万物を治める力を彼に与えた。しかし、かの悪人は怒りのうちに知恵から遠ざかり、憤って兄弟を殺し、滅び去った。
10:1-3
彼らに紅海を渡らせ、大量の水の間を通らせた。他方、彼らの敵をおぼれさせ、海の深みから吐き出した。
10:18-19
13:1-9は、ローマ1章を思い出させます。
神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。
その美しさに魅せられて、それらを神々と認めたなら、それらを支配する主がどれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ。造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造った方を認めるはずなのだから。
とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し求めて見いだそうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、目に映るものがあまりにも美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。だからといって彼らも弁解できるわけではない。宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主をもっと早く見いだせなかったのか。
ローマ1:19-23
ぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
16:5-7は、1コリント10章と類似しています。
動物の恐るべき怒りがこの民を襲い、彼らがくねった毒蛇にかまれて滅びようとしたとき、あなたの怒りは途中でやんだ。
彼らは懲らしめられてしばらくの間動揺したが、あなたの律法の戒めを思い出させる救いのしるしが与えられた。そのしるしを仰ぎ見た者は、目に映ったしるしによってではなく、万物の救い主であるあなたによって救われた。
1コリント10:1-11
そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
またヨハネ3:14-16でも似たようなテーマが見られます。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
この辺りを考察すると、パウロは「滅ぼす」という行為の主語を神とすることを頑なに拒んでいます。つまりパウロの考えでは、神が能動的に滅ぼすのではなく、私たちが自分たちの行為によって自らを滅びへと貶めているのです。しかし、その時に、イスラエルの人達が蛇を見上げて救われたように、イエスを見上げるものは救われる、という描写がヨハネの福音書ではなされています。
まとめ
こうして、ソロモン文学から、また以前の学びで取り上げたヨブ記や詩篇を含む知恵文学全般から、私たちは多くのことを学ぶことができますし、それがユダヤ人の思想、新約聖書を著した初期のクリスチャンの思想にも大きく影響していたことが分かります。簡単な答えを出すのではなく、時には矛盾するかのような考えも並べながら、この世の不条理と、その中で神の民としてどのように生きるかを日々考え抜いた先人たちの知恵が込められていると思います。
また、その中で、律法・神殿・伝統・教義教理、そういった絶対的な位置付けを占める宗教的要素を中心とし、それを盲信する信仰から、自分の心に問いかけ、自分で考えて生きる信仰が芽生えてきている、或いはそのような信仰にイスラエルの民が移行しているようにも思えます。イエスが第一の戒めに「知性」を加えていることを鑑みても、「神の御心は何なのか」ということを、勿論律法も宗教行事も教会も伝統も教義教理もすべて参考にしながら、知性を使って神を愛する、そうやって全力で生きていくことが、聖書の中で開いている信仰の姿勢ではないでしょうか。
そして、そのような信仰の歩みの中で、知恵の受肉とも言えるイエスを中心としたいですね。 聖霊を通して 、そのイエスが我々に日々寄り添ってくださっています。迷っているとき、もう駄目だと思う時に、イエスに目を留めれば、そこに救いがある。そう信じるつつ、益々知恵が与えられて成長していけたら良いですね。。
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