神の招き⑦『スケープゴート』

8月13日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/634486261

第三部「放浪から王政へ」

このシリーズでは、神が聖書全体を通して人間をどのような道、方向性に導いているか、つまり何から私たちを救ってくださるのか、そういう視点で聖書を読んでいます。聖書の言葉を細かく読み、その意味を詳しく時代背景などから学びますが、今まで教会で教えられてきた「当たり前」の解釈ではないものをどんどん提示していきます。その中で「救い」「神の国」「聖霊」「罪」などに対する理解・考え方も、当然変わっていくはずです。でも、その新しい理解・考え方も、「聖書より理性を重視するリベラル」(そのような荒唐無稽な批判がよく聞かれますが)できるだけ聖書のテキストから確認できる形で獲得していきます。

今回のシリーズは6月から始めて、6月の第一部は「創世記」、7月は第二部として「律法」を学んできましたが、8月は第三部で「放浪から王政へ」というテーマとし、主にヨシュア記、士師記、そしてIサムエル記までの範囲で聖書から読んでいきます。勿論今まで通り、旧約聖書で語られていることが新約ではどう展開されているかを随時読み比べますので、新約聖書も豊富に扱っていきます。

創世記の最後でヨセフが兄弟によってエジプトに売られますが、総理大臣となってエジプトを飢饉から救い、家族皆呼び寄せて父と再開、兄弟とも和解を果たし、彼の一族(イスラエル民族)はエジプトに定住するようになります。その数世代後、人口が増えたイスラエル人は、その時のエジプトの王(パロ)によって奴隷にされます。抑圧の中で民は神に叫び求め、モーセが現れて彼らを解放して連れ出します。その後、モーセを通して様々な律法がイスラエルの民に与えられます。また、荒野を通って「カナン」という約束の地に向かいますが、荒野が民が神に反逆したため、その世代はカナンには入れず、40年間荒野をさまようことになりました。その後モーセが死に、後継者のヨシュアが新世代のイスラエルを率いてカナンの地に向かいます。これからカナンの地を征服し、12部族がそれぞれの地を獲得していきます。

スケープゴート

今日のテーマは「スケープゴート」です。ヨシュア一行は、まずエリコという町を神の奇跡で奪い、さあこれから残りのカナンの土地を順に奪っていくぞ、と意気込んでいたときにある事件が起きます。そのストーリーはまた後程取り上げます。もともと「スケープゴート」

という言葉はレビ記16章の贖罪の日に由来します。このシリーズでも何度か触れましたが、贖罪の日の儀式では、民全体の罪を山羊に被せ、その山羊を野に放ちます。社会学などでは、人々が自分たちの罪の意識を和らげるため、争いを緩和するために都合のいい犠牲者を見つけて、その人を殺すこと・追放すること・悪者にすることで平和を取り戻すことを指す場合も多いです。多くの「いじめ」もスケープゴート行為と言えるでしょう。

このシリーズでは「人間論」についてずっと語って来ました。人間社会はどのようにできてきたか、という問いについてずっと考えています。互いの欲望を模倣することによって争いが起き、それによって共同体全体に争い・敵対心が広がり、共同体が滅亡の危機に陥るようなことが続くと、それを避けるためにあらゆる方法を人間は講じるようになります。その一つが、スケープゴートを作ることです。民全体のヘイトを一人の人に集中的に注ぐことで、一時的に平和を取り戻します。人間はこれに慣れてしまい、それを繰り返すようになり、儀式化するようになりました。これが供犠であり、宗教の誕生です。コミュニティの平和を守る為に人を生贄にするのです。現代でも、いわゆる「宗教」を信じない人が多い中でも、宗教とは認識されない形でもこのような「供犠的」な社会形成、つまり「スケープゴート行為」が根強く残っていることは容易に理解できるでしょう。人間とはそういったものなのです。

コミュニティはそれで平和を取り戻せるかもしれませんが、犠牲者からしたら、単なるリンチ殺人以外の何物でもありません。。でも、犠牲者も自分はコミュニティを救うための役割を担っていると信じさせられることもあり、そうでなくても死人に口なしで、そのリンチ殺人は「神話」として奇跡的・超自然的な要素が混ぜられ、また犠牲者自身の言葉や思いも勝手に変えられます。それが何世代も繰り返し行われ、過去の件も神話で伝えられることによって、人間はそのことに無自覚になっていきます。

人間社会には「スケープゴート行為」が蔓延しています。でも、今では我々も「いじめだ!いじめは絶対ダメ!」という認識があります。この認識は、実は新しいことなのです。古代の世界にはあまりなかった認識です。実は、その認識の定着には、聖書が大きな役割を果たしているのです。実際に、スケープゴートとして行われる宗教的な供犠行為が「あれはリンチ殺人だ!」と最初に暴くようになったのが、聖書だと言われています。そして、そのことを最終かつ完全に暴いたのが、イエスの十字架です!今日はまずそれを見てから、ヨシュア記のストーリーに戻ります。

イエスの死はスケープゴート行為だった!

マタイ23:27-36

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。

どういう意味でしょうか?この箇所を、エルサレムが70年にローマ軍によって滅ぼされたことの預言だとと解釈する人もいますが、そうではありません。ここでイエスが「正しい人たちの血が降りかかる」と言っているのは、宗教的な供犠によって迫害されて殺された人たち(スケープゴート)の、その実態がこの世代でおいて明らかになる、すべてが暴かれるということです。イエスは別の所で(マタイ10:26, ルカ8:17)で「隠されていることはすべて明らかにされる」と言っています。イエスご自身が究極のスケープゴートとなることで、今までは隠されていたスケープゴート行為が暴かれ、その中で殺されたすべての人の叫びがイエスに集約され、新たな革命的なことが起きるのです。

宗教権力が神話の力、宗教の力で、被害者たちに罪を被せてきましたが、それによって覆い隠されてきた本当の罪が暴かれるます!それが「裁き」なのです。イエスの裁きは、人を直接滅ぼしたり痛めつけたりはしません。悪の勢力を暴き、人間が気付かずにしてきたスケープゴート行為の実態を明らかにすることで、もはやそれが通じなくなるようにします。つまり、サタンの力が奪われるのです。そうして、新たな生き方、人間社会の築き方(神の国!)へと我々を導いて下さるのです。

イエスの死が「スケープゴート」であることは、教会でそう教えられることはあまりないですが、聖書テキストを丁寧に読めば、福音書著者がそのように認識されていることは簡単に読み取れます。

ヨハネ11:47-53

そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

これほど明らかなテキストがあるでしょうか?また共観福音書すべてで、イエスが死んだあとに百人隊長がイエスについて話す言葉が出てきます。

マタイ27:54「まことに神の子だった」
マルコ15:39「まことに神の子だった」
ルカ23:47「まことにこの方は無実だった(正しい人だった)!」

イエスが無実だったことを証言しています。イエスがアベルからゼカリアまでの犠牲者を代表するのだとしたら、単にイエスが無実だということではなく、人間の宗教的供犠行為によって殺されたすべての人の無実をイエスが死を通して訴えていることになります。アベルも、その他の人々も皆無実な犠牲者であり、人を犠牲にして、スケープゴートにして排除する人間社会が罪深く、変わらないといけないということです。

イエス自身は自分の死についてヨハネ伝でこう証言しています。

ヨハネ16:7-11

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

助け主とは勿論聖霊のことです。イエスの役割は、スケープゴート行為が宗教の名を借りて行われていることを、自身の命を捧げることで示すことでした。その実態、その「罪」が暴かれれば、共同体全員がそれに賛同できなくなります。「やっぱりおかしい、そいつは無実で、悪いのは宗教指導者だ」となると、それまでのコミュニティの秩序が崩壊し、新たな生き方が必要となります。その生き方こそが、イエスが教えた「神の国」の倫理や原則であり、イエスが去ったあとにそのような社会へと導いてくれるのが「助け主」と呼ばれる聖霊です。それは、供犠を中心として生き方ではなく、愛を中心とした生き方です。

スケープゴートにされたアカン

では、ここでヨシュア記に戻りましょう。

ヨシュア記7章1-26

1 しかしイスラエルの子らは、聖絶したもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。
2 ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々を次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。
3 彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。ニ、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」
4 そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。
5 アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。
6 ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。
7 ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。
8 ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。
9 カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」
10 主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。
11 イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。
12 だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。
13 立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。
14 あしたの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。主がくじで取り分ける氏族は、氏族ごとに進みいで、主が取り分ける氏族は、家族ごとに進みいで、主が取り分ける家族は、男ひとりひとり進み出なければならない。
15 その聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならない。彼が主の契約を破り、イスラエルの中で恥辱になることをしたからである。』」
16 そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。
17 ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。
18 ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた。
19 そこで、ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。」
20 アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。
21 私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」
22 そこで、ヨシュアが使いたちを遣わした。彼らは天幕に走って行った。そして、見よ、それらが彼の天幕に隠してあって、銀はその下にあった。
23 彼らは、それらを天幕の中から取り出して、ヨシュアと全イスラエル人のところに持って来た。彼らは、それらを主の前に置いた。
24 ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。
25 そこでヨシュアは言った。「なぜあなたは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけた。
26 こうして彼らは、アカンの上に、大きな石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた。そういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。

この話を、聖書の権威や霊感説などの影響を全く受けずに読めば、スケープゴート的なリンチ殺人であることが分かるはずです。

まず、アイという部族に戦いを挑みますが、負けてしまいます。戦争に負けると兵士の士気が下がります。戦争に負ける理由としては①兵力が足りなかった、②戦闘員の能力が足りなかった(相手の能力が非常に高かった)、③指揮官が戦略的なミスをした(相手が戦略的に優れた手を打った)、などが考えられます。今回の敗戦に関しては、①は聖書テキストから排除できます。②の場合、それをそのまま受け入れてしまうと、士気が下がって今後の戦いに影響します。③であれば、ヨシュアをはじめとした指揮官が責任を問われ、民からの反発を招く恐れがあります。だから、士気の低下や民の反発を回避するために、別のところで敗戦の理由を見つける必要があったと考えられます。

また本当に神からの啓示で「聖絶のもの」を盗んだ人が明らかになるのであれば、くじ引きなど必要がありません。くじ引きは、①人間的なプロセスであること、そして②選べれるのは誰でも構わないことを示しています。少し前にはエリコの町を獲得し、戦利品がたくさん出たことでしょう。勿論戦争には略奪がつきものです。秩序を保つために指揮官が略奪を禁止したとしても、多くの人たちが価値のあるものを自分たちの所有品として手にしたでしょう。

要するに、アカンの他人も対象となる得る人がたくさんいたと考えられます。部族・氏族、家族が順にくじで選ばれる中で、自分のグループが過ぎると、その人たちはホッとして胸を撫で下ろすのです。最終的に一人が選ばれ、見せしめとして殺されます。他の人たちは、自分が助かれば良いのですから、他の人も盗んだことを明かしたりはしません。

家族まで殺すのは明らかにオーバーに見えますし、それを正当化するような律法はありません。これは、口封じが目的だと考えられます。本当は自分だけじゃない、自分は罪ゆえに殺されているのではなく、スケープゴートとして殺されているのだ、という訴えも、石打ちと火によってかき消されます。

これによって、兵士の士気が回復し、指揮官の作戦にミスがあったとしてもそこに責任を問う声は回避できます。また今後の戦争で勝った時の略奪などの無秩序も抑えやすくなります(皆同じような目に遭う可能性があることを見せつけられるため)。

この話は、イエスの十字架の前です。つまりスケープゴートの実態がまだ完全に暴かれていない段階です。それでも、この話を「霊感説」などの色眼鏡を外して読めば、リンチ殺人だということが火を見るより明らかです。聖書の記述は全体としてはヨシュアの行為を肯定する形で書かれていますが、神話化が非常に中途半端で申し訳なさそうに書いているように思えます。くじ引きの件など、リンチ殺人だということが分かる情報が残され、スケープゴートであることを覆い隠すのに失敗しています。

アナニアとサッピラ

ではイエスの死を通してスケープゴート行為の実態が完全に明かされた後はどうでしょうか?新約からもう一つのスケープゴート行為を取り上げたいと思います。

使徒5:1-11

ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。

三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

弟子たちは一種の共産主義のような共同体を目指していたことが使徒2-4章から分かります。ものを分け合うことは分かりますが、個人的所有物を一切主張しないことまで強制するのは、イエスが教えたことと合致するかは大いに疑問です。厳しすぎることをすると、それに従えない人が出て来て、もともとそのような決まりを敷いた人たちがその責任を回避するために誰かを身代わりに悪者に仕立てあげる、という構図が古今東西変わらないようです。アカンの話の「略奪禁止」似ています。皆さんも教会でも(あるいは職場、学校など)同じようなことが起きたことはないでしょうか?

まず、使徒教会では本当にすべての人が全部嘘をつかずに捧げてたでしょうか?アカンの話と同様、多額の献金をしつつも一部を自分たちのとして残していた人が続出していたのではないでしょうか?教会の人たちを「締める」ためにスケープゴートが必要だったと考えられます。そこでアナニアをスケープゴートにして殺し、そして本当の話が漏れないために妻のサッピラも殺した、ということが考えられます。

よく、従来の「霊感説」に憑りつかれていて、聖書の記述を批判的に読めないクリスチャンは、「初期の教会において使徒たちの権威を示すために神がそうなさった」と言います。でも、その人たちはイエスの「権威」についての教えを知らないのでしょうか?

マタイ20:25-27

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。

誰かを見せしめにして、人々を恐怖に陥れて従わせるような「権威」は、イエスの描く「神の国」の経済とは全く無縁です。

では、この話とヨシュア記のアカンの話との最大の違いは何でしょうか?それは、一番最後にあると考えられます。「大きな恐れが生じた」とありますが、神の恐れだとは書いていません。ヨシュア記では、神の怒りが去り、その後人々の士気が回復してまた戦争に勝てるようになりましたが、ここではそうなっていません。初期の教会が大きく瓦解し、迫害が強まり、教会は散らされていきます。勿論それを神は益と変えて下さって、今まで福音が届いていなかったところに届くようになりましたが、教会の中にはそのようなやり方に対する反発もあったことが予想できます。ポスト・イエスだからです!スケープゴート行為、無実の人に罪を着せて殺して共同体全体を浄化したかのようなやり方は虚偽の秩序でしかなく、本当の神のやり方ではないということを、皆知っているからです!サタンは既に無力化されているからです!

ポスト・イエスの時代に生きる私たち

私たちもポストイエスの時代に生きています。だから虐めを虐めとして認識できます。でも宗教の力も失われておらず、「宗教」とは認識されていないものを通して供犠的な社会形成が今でも根強く残っています。そのようなことを暴いていき、人が犠牲にされている実態を明らかにして、必要ならば一緒に犠牲になるぐらいの気持ちで共に声を上げていくことが、イエスに従うクリスチャンに求められているのではないでしょうか。一人一人がどの分野で活動していくかは違うかもしれません。LGBT差別、女性差別、人種差別、地域的な搾取(沖縄の基地問題など)、その他様々な状況でスケープゴートにされている人々を助けるために活動しているクリスチャンが大勢います。それこそが「神の国」を広げる活動と言えるでしょう。また、そのような活動を促進する神学もキリスト教の歴史の中にたくさん存在します。解放の神学、フェミニスト神学、クィア神学、黒人神学などがそれにあたります。そのような神学も、もっと神学校で教えられ、また教会でも広く伝えられていく必要があるのではないでしょうか。

ヨシュア記のアカンの物語も、使徒行伝のアナニアとサッピラの話も、一般の人が読めば、「それはおかしい!不当な殺人だ!」と分かるはずです。そも、皮肉にも、その話を「神の権威」で正当化し、そこに明らかにされているはずのスケープゴート行為を再び見えなくしてしまっているのは、他でもないクリスチャンです。そのことを大いに反省すべきではないでしょうか?最後に、使徒パウロの言葉で閉じたいと思います。

ローマ12:1-2

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

生きた供え物?そんなものはないはずです。「供え物」は定義上死んでいますから・・・でもいます!ただ一人、死んで蘇られたイエス・キリストです。イエスの復活は、神がイエスを無実であることの証明です。またご自身だけでなく、この世界の権威者たちの都合によって正当化された供犠行為によって殺されたすべての人の無実を宣言するものでもあります。私たちも、この「生きた供え物」であるイエスの働きをすることができるのです。そのためには、クリスチャンの人たちの心が一新されることが必要です。この世と歩調を合わせるのではなく、社会の中で、不当に搾取されてスケープゴートにされている人たちを救い、権力側の悪を暴くときに、神の国が広がっていくのです。

それが私たちの使命です!搾取されている人、声さえ上げられない人、代わりに声を上げていく、共に苦しんでいく、それが大切。それが福音、平和の福音を運ぶものとなっていきましょう!

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