神の招き12-ソロモンの神殿

2021年9月24日ツイキャスhttps://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/642465154
10月8日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/644965828

ソロモンという人物

今回の「ダビデとソロモン」の章では、これまで「ダビデの闇」を2回に渡って見てきました。今回は、ダビデの息子であり王位の後継者であるソロモンについてです。

ソロモンは、知名度こそ高いですが、ダビデと比べると彼に関する記述が聖書の中で占めるウェートは非常に少ないです。このシリーズの導入編では、2人の娼婦の赤ん坊を巡る争いを見事に裁いたソロモンの知恵の話をしました。ソロモンは、王位に就く際、神に「何が欲しいか」と聞かれて「知恵を下さい」て言ったことで有名です。ソロモンは知恵に富んだ王として後世の人々にも愛され、彼のものとされる明言や詩が箴言や雅歌などの聖書の書物にもなっています。それだけでなく金銀財宝も豊富にあって、父のダビデの時代とは違い、圧倒的な財力を活かして他国とも良好な関係を築き、イスラエルは争いのない平和な時代だったとされます(実際の歴史はそうではなかった、と考える学者も多いですが)。シバの女王がソロモンの知恵を聞くために遠路はるばるエルサレムまでやってきたという話は有名です。

それ以外のソロモンの逸話は聖書の中でほとんどありません。しかし、聖書全体のメッセージを理解する上で非常に大切な出来事が、ソロモンの業績として聖書に描かれているのです。そのイベントを今日は取り上げたいと思います。

神殿建設の計画

ソロモンという人物の重要性は、イスラエルの神殿を建てたことに尽きると言って良いでしょう。それまでは仮庵のようなもの、「幕屋」などと呼ばれた可動式の小さな「神殿」で、その中に「契約の箱」が置かれていました。しかし、ダビデが諸外国との戦いに勝利し、ダビデの王家が盤石となった今、可動式ではなく、エルサレムの都市に、イスラエル国家のシンボルとなる神殿の建設が始まるのでした。しかし、これを最初に建てようとしたのはソロモンではなくダビデだったのです。その箇所を聖書から最初に取り上げます。

1歴代誌22:1-10

そこで、ダビデは言った。「これこそ、神である主の宮だ。これこそ、イスラエルの全焼のいけにえの祭壇だ。」
そして、ダビデは命じて、イスラエルの地にいる在留異国人を召集し、神の宮を建てるため石材を切り出す石切り工を任命した。ダビデは、門のとびらの釘および留め金用の鉄をたくさん用意し、青銅も、量りきれないほどおびただしく用意した。また、杉の木も数えきれないほど用意した。シドン人とツロ人がダビデのもとに杉の木をおびただしく運んで来たからである。
ダビデは言った。「わが子ソロモンは、まだ若く力もない。主のために建てる宮は、全地の名となり栄えるように大いなるものとしなければならない。それで私は、そのために用意をしておく。」こうして、ダビデは彼が死ぬ前に多くの用意をしておいた。
彼はその子ソロモンを呼び、イスラエルの神、主のために宮を建てるように彼に命じた。ダビデはソロモンに言った。「わが子よ。私は、わが神、主の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた。ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を流してきたからである。見よ。あなたにひとりの子が生まれる。彼は穏やかな人になり、わたしは、彼に安息を与えて、回りのすべての敵に煩わされないようにする。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与えよう。彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしにとって子となり、わたしは彼にとって父となる。わたしはイスラエルの上に彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。』

つまり、ヤハウェという唯一神に対する篤い信仰を持っていたダビデは、ヤハウェのための偉大な神殿を建てたいという願望を抱いていましたが、ダビデは戦争ばかりして沢山の血を流してきたがゆえに、ヤハウェを彼に神殿の建設をお赦しにならなかったのです!政治的には、当時の国々は戦争するのは当たり前で、強きは正義の時代です。でも、血を流すことは神の御心ではない、というここに大きな神の啓示がここに見られます。神は、人間の殺し合いとは無縁でありたい、殺し合いの中で賛美されたり栄光を受けたりはしたくない、ということをこの話は物語っているのではないでしょうか。

この箇所の後に、神殿建築のための手順などの詳細をダビデはソロモンに伝えます。そして第二歴代誌では、ついに神殿が建てられますので、その箇所を読んでいきましょう。

ソロモンのスピーチ

II歴代誌6:1-11(I列王記8も同じ内容)

そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。そこでこの私があなたのお治めになる宮を建てました。あなたがとこしえにお住みになる所を。」
それから王は振り向いて、イスラエルの全集団を祝福した。イスラエルの全集団は起立していた。
彼は言った。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた。『わたしの民を、エジプトの地から連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばず、また、わたしの民イスラエルの上に立つ君主とするためにどんな人も選ばず、ただ、エルサレムを選んでそこにわたしの名を置き、ダビデを選んでわたしの民イスラエルの上に立てた。』
それで、私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることを、いつも心がけていた。ところが、主は、私の父ダビデにこう仰せられた。『あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、よくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のためにその宮を建てる。』
主は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、主の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、主がイスラエル人と結ばれた主の契約が納められている箱をそこに置いた。」

先に見た箇所でダビデが言ったことをソロモンもここで繰り返しています。それから、ソロモンは神に向かって祈ります。この祈りにも、古代の宗教に共通で見られるようなことがなかったり、逆説的なこと、つまり「本当の神の啓示」と思われるような要素が詰まっているのに注目したいです。

12-18
彼はイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を差し伸べた。ソロモンは、長さ五キュビト、幅五キュビト、高さ三キュビトの青銅の足台を作って、これを庭の中央に据えておいたが、その上に立って、イスラエルの全集団の前でひざまずき、両手を天に差し伸べて、言った。
「イスラエルの神、主。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、『あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの律法に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く者が、わたしの前から、絶えることはない』と仰せられたことを、ダビデのために守ってください。今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。
それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

この18節の宣言は非常に画期的だと思いませんか?古代宗教では、神が文字通り神殿に宿ると信じられていました。しかし、エルサレムの神殿を、イスラエルの人たちの宗教心に応えるために建てるものの、神はそんなところに住むお方じゃない、そこに入りきれないほどの大きな方だという宣言がされているのです!

続けて読みましょう。少し長いですが、最後まで行きます。

19-42
けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天からこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。
もし、ある人が隣人に罪を犯し、のろいの誓いを立てさせられることになって、この宮の中にあるあなたの祭壇の前に来て、誓うなら、あなたご自身が天からこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪者にはその生き方への報いをその頭上に返し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。
また、もし、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したため、敵に打ち負かされるようなとき、立ち返って御名をほめたたえ、この宮で、御前に祈り願うなら、あなたご自身が天からこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らとその先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。
彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされ、雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって、彼らがその罪から立ち返るなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に、雨を降らせてください。
もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の疫病と痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天から聞いて、赦し、ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけが人の子らの心を知っておられるからです。それは、あなたが私たちの先祖に賜った地の上で彼らが生きながらえる間、いつも彼らがあなたを恐れて、あなたの道に歩むためです。
また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕のゆえに、遠方の地から来て、この宮に来て祈るとき、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天からこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。
あなたの民が、敵に立ち向かい、あなたが遣わされる道に出て戦いに臨むとき、あなたの選ばれたこの町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、あなたに祈るなら、天から彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。彼らがあなたに対して罪を犯したため―罪を犯さない人間はひとりもいないのですから―あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地、あるいは近くの地に、捕虜として捕らわれていった場合、彼らが捕らわれていった地で、みずから反省して悔い改め、その捕囚の地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行って、咎ある者となりました』と言って、捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。
今、私の神よ。お願いします。どうか、この所でささげる祈りに目を開き、耳を傾けてください。そこで今、神、主よ。あなたもあなたの御力の箱も立ち上がって、休み所にお入りください。神、主よ。あなたの祭司たちの身に救いをまとわせてください。あなたの聖徒たちにいつくしみを喜ばせてください。神、主よ。あなたに油そそがれた者たちの顔を退けないでください。あなたのしもべダビデの忠実なわざの数々を思い起こしてください。」

特筆すべきことは山ほどありますが、まず、宗教において重要な柱のはずの一つが、完全に欠けていることにお気付きですか?そう、この中には「生贄」が全く出てこないのです!普通、古代の宗教では、雨が降らなかったり災害が起こったりすれば、当然祈りは捧げますが、それと共に生贄が捧げられます。イスラエルも、レビ記に規定されていたように、生贄を様々な場面で捧げたはずです。しかし、この祈りの中にはそれが全く含まれていないのです。悔い改めて神に立ち返り祈り求めれば赦され、神と和解できるのというのです。

新しい神殿に生贄が一切想定されていないという事実、そして先ほどの、神は神殿に入りきらないほどの偉大な方だというソロモンの宣言は、神殿の役割を完全に覆してしまいます。通常、神殿は神が住む場所で、そこに人が捧げ物を携えて、神に「与える」ためにやってきます。しかし、このエルサレムの神殿は逆なのです!

本来なら、天の上の入りきらないようなお方が、人間が作ったちっぽけな神殿になど住むはずがないのに、わざわざそこに来て下さるのです。そして何の生贄も流血がなくとも、人々の祈りに答えて、癒しと赦しを豊かに与えて下さるのです。神殿を通して、人が神に捧げられるのではなく、神がご自身を我々人間に捧げて下さるのです。

イエスの宮浄め

この神殿を巡って、新約聖書では4つすべての福音書で記されている大事件が起こります。イエスが神殿の中の人を追い出し、大騒ぎとなります。この事件がイエスの十字架刑の最大の要因となったとも考えられています。マルコのバージョンから見ていきましょう。

マルコ11:15-18

それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。

イエスは、本来神殿が神からすべての人に与えられているものだと理解していたのでしょう。ソロモンの祈りには、異邦人でも神に祈れば聞いてもらえるようにとの祈りが含まれていました。しかし、(聖書に明記はありませんが)両替や動物の売り買いなどが行われていたのは、一般には「異邦人の庭」と呼ばれる外庭だったと考えられています。異邦人は、それ以上中には入れません。

つまり、異邦人が神と繋がるために唯一設けられていた場所で、異邦人の居場所を奪い、金儲けをしていたことに激怒したと考えられます。イエスは単に金儲けに怒ったのではなく、「器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった」とあるように、神殿での生贄自体やめさせようとしていました。実際にやめさせるというよりは「神殿は本来こんなものではない、やがてこの神殿に変わって、自分が神殿となって、神の国が広がっていくのだ」という預言的行為だったとも考えられます。そういう意味では、神殿での行為と十字架はセットなのかもしれません。

十字架のイエス

同じマルコの福音書の、イエスの十字架のシーンに次は目を向けましょう。

マルコ15:24-38

それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

ここでも、イエスが「神殿を打ちこわして3日で建てる」と言った言葉が語られていますが、イエスは自分自身が、本来の神殿の目的のように、その死を通して人々に与えられる存在となることを語っていたのではないかと考えられます。死んでから3日後に復活し、赦しと和解を宣言したイエスは、民の為に与えられて死んだ人でありながら、尚も生き続けてご自身を与えると共に、人を踏みにじる生き方ではなく、自分自身を他人に与える生き方へと我々を招いて下さっているのではないでしょうか?

また、イエスの死のシーンで、神殿の幕が真っ二つに裂けます。その向こうには、誰もいないのです。神はそんなところには住んでいないのです。我々が生贄を携えてある場所に来て人の命や動物の血を引き換えに御利益を頂戴できるような神は、存在しないのです。イエスを十字架で殺す行為にも、神殿という宗教的な場所を使って人や動物を殺す行為にも、神殿以外の場所で社会の安定のために人をスケープゴートにして殺す行為にも、神は一切関わっていないのです。神は非暴力の神、平和の神です。

「王国の誕生」というテーマで3回の学びを通してダビデとソロモンの話を取り上げてきました。士師時代から様々な残虐行為、暴虐的な行為が続き、そして宗教の中心となってたくさんの生贄が捧げられ、また権力闘争の中心ともなって多くの血が流れる神殿が建てられていきます。しかし、それらの暴力には、神は全く関与していない、と考えてよいのではないでしょうか。聖書の表面の文字からはそのようには見えないかもしれませんが、注意深く読めば、本当はそのような神を描いていた人たちが、私たちがそのような神に出会えるためのヒントを聖書の中にも残してくれたのかもしれません。神はご自身を我々のために捧捧げて下さる方です。自身が崇められるため、力を得るために人の命や動物の血を要求する神ではないのです。

「私から命を得て、互いの命を奪い合うのではなく、与え合うような生き方に変えなさい、神の国を受け入れなさい、悔い改めなさい。」そうやって、神様は旧約時代からずっと私たちを招いて下さってるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です