神の招き―大預言者①「第一イザヤ」

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今回からは預言書にフォーカスして学んでいきます。トップバッターは、旧約の中でも最長の預言書であるイザヤです。

これまでの学びでも言っていますが、「神の招き」というのは、聖書が創世記から新約に至るまでどのように人間を導いているか、そのメッセージを読み解こうとする試みです。従来教会で教えられるような「贖罪」が聖書の本来のメッセージではなく、人間を新たな生き方に導く「招き」なのだ、という僕なりの仮説です。それこそが「永遠の命」「救い」「神の国」などと新約聖書で呼ばれているものだと考えています。その「招き」の声は、特に預言書の中で顕著に見られるようになります。イエスが説いた「悔い改め」に通じる呼び掛けが旧約預言の至る所にあり、今日イザヤたちが生きていれば我々にもそのような厳しい呼びかけがあるのでは?と考えます。

イザヤ書について

イザヤという名の預言者が活動したのは、ウジヤ(=アハズヤ)、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4人の王の代だとされています。「イザヤ書」と呼ばれる預言書は、伝統的な見方ではすべてがイザヤという人物よる直接の預言だと考えられていますが、今ではイザヤという人物の預言をまとめたのは1-39章ぐらいだという見解が有力です。その後半は「第二イザヤ」などと呼ばれます。40-55はイザヤの死語100年ほど後のバビロン捕囚時代に、イザヤ派の弟子預言者あるいはイザヤの影響を受けた人物が書いたもの、また56章以降は捕囚からの帰還後に書かれたとものと考えられていて、それぞれを「第二イザヤ」「第三イザヤ」とする分け方もあります。この章では、1回目に39章までの「第一イザヤ」の部分を学び、次回40章以降をまとめて「第二イザヤ」として取り上げます。

この「神の招き」の学びの中で、創世記から様々な箇所を順に取り上げてきましたが、ユダヤ・イスラエル国家の衰退・滅亡・捕囚の過程で(主に列王記などでその歴史が述べられています)、その経験からユダヤ人の宗教観に新たな考えが芽生え始めていたことを指摘しました。それは、今までのように律法の文字や神殿などの抽象的な権威に頼るのではなく、神ご自身が人々の心に神の律法を書き記して導いて下さる、ということがメインでした。他にも、神はユダヤ人贔屓ではなく、異邦人も同じように愛しているということ、また神は律法に規定されているような生贄などそもそも望んでおらず、それよりも誠実さ・聖い心・弱者を助ける正義と憐れみを喜ばれることなど、そういった要素が預言書で更に色濃くなってきます。知恵文学にフォーカスした先月の学びでもそういった要素が見られました。本章でもそれらの要素にフォーカスしていきます。

預言者イザヤが活動した時期の歴史的背景をおさらいしてみます。ユダ(分裂したイスラエルの南側)の王は、ウジヤ。彼の統治の終わりごろからイザヤは預言活動を始めたと思われます。ウジヤの後はヨタム。非常に短い王位の期間でした。その次のアハズも早くに亡くなりました。その後に王となったヒゼキヤは、ウジヤと同様かなり長い間王としてイスラエルを治めました。ですからイザヤの預言者としての活動は、主にウジヤとヒゼキヤ王の時代だったと言って良いでしょう。

この時代に、まずシリア(アラム)との戦いが起きます。列王記を学んだ時に、皮膚病が癒された将軍ナーマンという人物が登場しましたが、彼はシリアの将軍です。ユダは、兄弟であるはずの北イスラエルと敵対し、イスラエルはシリアと同盟を組みます。その戦いについての預言もイザヤ書にありますが、シリアの問題など取るに足らないほどの更に大きな出来事がこの時に起きます。それはアッシリア帝国の襲来です。これによって北イスラエルはあっという間に呑み込まれます。その時ユダの王はヒゼキヤでした。ヒゼキヤも襲ってきたアッシリアの王に一度降伏しますが、後に反乱を起こし、アッシリアをユダから駆逐することに成功します。具体的に何が起こったかは不明ですが、聖書では何らかの奇跡的な出来事によってユダが勝利したとされています。敗北したアッシリアの王は、イスラエルは手に入れますがユダの併合は諦めます。その後ユダデはヒゼキヤの曾孫ヨシア王などの優れた王のリーダーシップもあって、100年以上も独立国家として存続します。その後、アッシリア帝国を滅ぼして台頭したバビロン帝国に攻められて滅びます。

イザヤ書の預言は、その過程全体を網羅しているのです。ウジヤとその後を継いだアハズ王がイスラエルやシリアと小競り合いを演じているのにも付き合っていますし、その後のアッシリアの襲来も預言しています。またユダが同盟を組んだりして関わっていたエジプトに対する預言などもあります。その後にユダが完全に攻め滅ぼされること、ユダやイスラエルのレムナント(残りの人)が神に確保されて守られることなども預言されます。それだけでなく、バビロンすら完全に滅ぼされること、さらにクロスという王がユダの民に聖地への帰還を許し、新たにイスラエルが神の住まいとなっていくことも預言されています。非常に長い期間が網羅されていることもあって、これらすべてが一人のイザヤという預言者によって語られたとするのは無理がある、という理由で「第二イザヤ」などと分けられるようになりました。ただし、紀元前8世紀ごろにユダで活動したイザヤという実在の人物の預言がベースになっているというのは定説としてあります。

多くの学者はイザヤ書が複数部分に分けられると説きますが、それでも全体としての統一性は物凄く高いとの指摘もあります。もしかしたら、イザヤ本人の預言と考えられている1-39章も後に手が加えられたのかもしれませんし、何章かは丸ごと後世に挿入された可能性も指摘されています。今後イザヤ書に関する説もアップデートされていくかもしれません。

預言書の学びのポイント

ここから今日の学びの中心的な内容に入っていきますが、今回のイザヤ書だけでなく、預言書を学ぶ上で3つのポイントを意識しながら読んで考えていきたいと思います。

1つ目は、このイザヤ書の背景です。

つまり、何に対して預言しているのか。周りで何が起きているのか、ということです。クリスチャンの悪い癖は、聖書に書いてあることがすべて自分のために書かれてあると思い上がることです。勿論、私たちのためだと思って大いに結構です。その聖書箇所から学ぶことは当然あります。でも著者が自分たちを想定した書いたわけではないということを認めなければ、現代人のバイアスを外して読むことはできません。21世紀の科学技術の発達した民主主義社会で自由気ままにソファに座ってテレビを見てスマホやパソコンいじれる社会、また誰もが高等な教育を受けて自分が将来どんなことをしたいかを考えて夢を持って生きられる社会、そのようなものは聖書では全く想定されていない、という認識はもっと意識的に持つべきでしょう。教会によっては、聖書から、特に預言書から引用して自分たちがやりたいことや夢見てることを後押ししたり、自分で好きな聖書箇所を拾い上げて自分の夢の実現のための心理的な燃料にするような雰囲気を醸成しているところが多すぎると感じます。

我々クリスチャンとしては、まずイエスがどのような社会を描いていたか、イエスが「神の国」と呼んだものはどのようなものかを考えるべきでしょう。そしてイエスの考えを形作った聖書がどういうメッセージを込めているのか、そういった目線で預言書も読んでいきたいです。それがまさに2番目のポイントです。

2つ目は、イエスや新約著者がどのように引用したか、です。これは新約聖書と照らし合わせながら、イエスが引用した部分、または意図的に省いたと思われる部分などを取り上げ、そこにどのような意味合いが込められているかを探りたいと思います。勿論イエスだけでなく、新約著者たちがどのように旧約預言を用いているかもこれに繋がる大きなポイントです。

3つ目は、前述の二つと被りますが、「神の招き」とどのように関連するか、です。つまり「他の人を犠牲にしてその上に発展していくような人間の社会形成」に対して、新たな人間としてのあり方へと招く神の壮大なプロジェクトが、預言書の中でどのように表現され、展開されているのかに目を向けながら預言書を読みたいということです。

既に述べたように、イザヤの活動が始まったのはウジヤ王の時代で、ユダもイスラエルもまだ国として存在していた時期です。両国の仲は険悪で、さらにシリアが絡んだ戦争などもありました。そして最初は遠い存在だったアッシリア帝国が侵略してきて、イスラエルは滅亡、ユダも脅かされます。イザヤはそれを「神の裁き」として捉えて預言します。

なお、これを言うと保守派から様々な反応が来るのですが、聖書の「預言」は未来予言ではありません。未来を言い当てるのが目的ではなく、今起きていることを神の目線で解き明かすこと、それを通して神がご自分の民に何を求めているのか、何を語ろうとしておられるのかを伝えるのが預言者の役割だったのです。ですから過去予言も多く、既に起きたこと、今現在進行形で起きていること、また勿論これから起こるであろうことも預言には含まれます。しかし何千年も何百年も先を預言するという意図は預言者たち本人には全くなかったと考えて良いと思います。これについては最後にもう少しだけ取り上げたいと思います。

イザヤ書の流れ(一部抜粋)

つまり、イザヤがどんな預言をしているかで、当時の状況が推測できるのです。まず1章から、そして所々かいつまんで読み、当時起こっていたことや、イザヤが伝えようとしてことについて考えていきましょう。

1:10-20

聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙—それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日—会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。

預言者が活発になる時期は、大抵国がうまくいっていない時です。ここの預言で指摘されているのは宗教の腐敗、道徳的堕落です。これはイザヤ書だけでなく預言書の至るところに見ることができます。

次に4章2-6節

その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。

主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、

主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、

昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。

小規模な何かの災いがあることが預言されていて、そこから残った人たちについて書かれています。しかし完全な破壊や捕囚ではありません。いわゆる「終末的」な預言ではないです。

12章には感謝の歌があります。アッシリアを撃退した時でしょうか?そして13章からはバビロンに対する批判的な預言があります。このころ、まだバビロンはそこまでの大国ではありません。

14章には、サタンが「ルシファー」と呼ばれて堕天使の頭として扱われる元ネタが登場しますので、そこを少し取り上げましょう。

14:12-15

暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

この「暁の子」がラテン語で「ルシファー」と訳されたことから、サタンの別名として使われるようになりました。この箇所は明確にバビロンに向けた預言で、象徴的な言葉を使っていますが、これがサタンの反逆を示唆しているという根拠は全くありません。にもかかわらず、エゼキエル28章と組み合わされて「悪魔賛美リーダー説」を語る牧師にも出くわしたことがあります(笑) (サタンと悪霊らが堕天使だという説は、聖書よりもエノク伝などの「偽典」に由来します。)

15章以降ではアッシリアとペリシテを同様に断罪し、モアブ、ダマスコ、エチオピア(クシュ)、エジプトに対する預言が続きます。エジプトに関しては、ユダが同盟を組んだことが30章でも批判されています。ユダが20章ではアッシリアがエジプトとクシュを征服したことが記されています。

22章ではエルサレム崩壊の警告があり、それから隣国ツロへの批判が23章に続きます。24-27章は絶望からの解放を告げる預言があり、28章では1章同様に指導者たちへの批判が綴られています。29章では、アッシリアによるエルサレム攻囲戦が描かれています。その後、31章では「良き王」が到来し、国々の裁きとシオンの王国の確立が予言されます。

36-37章では、ヒゼキヤが従うのをやめたことでアッシリアの王が再び襲来します。しかしヒゼキヤが必死に神に祈ったため、アッシリアの王が死亡し、ユダは奇跡的に救われます。またヒゼキヤが重い病気にかかり、神からも寿命が来たことを宣告されますが、ヒゼキヤの必死の祈りに答えて齢が伸ばされたというエピソードが38章にあります。

イザヤ書と新約聖書

イザヤ書1-39章の概要をサクッと書き出しましたが、多くのクリスチャンにとっては、イザヤ書で有名なのは、新約で引用されていて、キリスト教の主要な教義の根拠とされている箇所ではないでしょうか?中でも、処女降誕の箇所とされ7章と、イエスの十字架上の贖罪死の根拠とされる53章が有名どころかと思います。53章は次の学びで取り上げますが、ここでは7章も含め、イエスをメシアとして打ち出すために新約著者達が引用した箇所をいくつか取り上げます。

7:1-25

1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。
2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。
3 そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、
4 そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。
5 アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。
6 『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう』と。

7 神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。
8 実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。―六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。―
9 また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマイヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」

10 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
11 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
12 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」
13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
15 この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。
16 それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。
17 主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」
18 その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあのはえ、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。
19 すると、彼らはやって来て、みな、険しい谷、岩の割れ目、すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。
20 その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。
21 その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。
22 これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる。国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食べるようになる。
23 その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものとなる。
24 全土がいばらとおどろになるので、人々は弓矢を持ってそこに行く。
25 くわで耕されたすべての山も、あなたはいばらとおどろを恐れて、そこに行かない。そこは牛の放牧地、羊の踏みつける所となる。

大抵、クリスマス礼拝などでは、この箇所が全部読まれることはありません。福音主義では、「聖書には矛盾がない」ことに確信があるのではなく、「聖書に矛盾があってはいけない」という信念があるので、この箇所が「キリストの誕生」として矛盾しない程度にだけ読みます。でも、この箇所は単発的に未来の予言が語られているのではなく、イザヤの目の前で展開されていた実際の話がちゃんとあるのです。(またヘブル語では「処女」ではなく「若い女性」であることも頻繁に指摘されます。)ここで預言されている子どもは、実際に次の章で生まれています!しかもイザヤは女性と関係を持ってこともはっきりと書かれています!

8章

1 主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。
2 そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」
3 そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。
4 それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

5 主はさらに、続けて私に仰せられた。
6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

ここまで読めばはっきりと分かりますが「若い女が身ごもっている」という預言は、間違いなく当時起きたことを語っているのです。次に、マタイ4章でイエスの奉仕活動の始まりを記した際にマタイが引用した9章を取り上げます。

9:1-7

1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

興味深いことに、マタイは1-2節を4章で引用しています。また6-7節は新約聖書の多くの箇所で示唆されています(ルカ1:32-33、エペソ2:14など)が、間の3-5節は新約で全く引用されていません。預言書の中にも酷い殺戮や暴虐的な描写が多数ありますが、新約の引用ではそれが悉く省かれていて「神の約束」「神の救い・解放」「良き知らせ」が強調されています。(ルカ4章でイエスがイザヤ61章を引用しながらも61:2の「神の復讐の日」の部分を省いていることは以前の学びで述べています。)この辺りから、旧約の引用における新約著者達の意図が垣間見えるのではないでしょうか?

使徒パウロもローマ書で11章を部分的に引用します。その11章を最後に見てみましょう。

1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
12 主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。
13 エフライムのねたみは去り、ユダに敵対する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。
14 彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。
15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。
16 残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。

パウロは、この箇所からイエスがメシアであることを示すために少しだけ切り取って引用するだけです。イザヤ書の文脈など全く無視です。パウロに限らず、新約著者たちの旧約引用は文脈的に考えると無茶苦茶な場合が多いです。現代の聖書学校なら確実に教授から怒られるでしょう!

新約著者たちの意図

しかし、もしかするとおかしいのは新約著者ではなく、私たちの読み方・考え方かもしれません。そもそもの「預言」に対する理解や期待がズレていると考えられます。既に述べたように「預言」とは未来を予測ものではなく、神が行っていることの解き明かしなのです。新約著者たちは勿論旧約聖書をくまなく読んでいだでしょうし、引きちぎって引用しているように見える箇所でも、元々の預言書の文脈を理解していたでしょう。では、なぜその文脈を無視したような引用が繰り返されているのでしょうか?

それは、彼らの考えの根本には「歴史は繰り返す」ということがあったからだと考えられます。創世記の失楽園物語、ノアの方舟、出エジプト、そして捕囚からの帰還は、すべて同じ神の贖いの働きが繰り返されていると考えたのではないでしょうか。そして、新約著者たちは自分たちの時代に起きていることを目の前にして、そこで神の働きが行われていると確信し、それを説明するためにユダヤ人たちの聖なる書物であった聖書を用いて「ほら、ここでも神が働いておられて、その神が今私たちの中でも同じように働いて下さっているのだ」と言いたかったのではないでしょうか。多少無理矢理で、こじつけ臭く見える箇所も多いですが、それでいいんです!神様はこのような方で、私たちの間にも奇跡的に、大きな恵みをもって働いて下さるということを力強く伝えるために旧約聖書をクリエーティブに引用したと考えられます。

そして、そのような聖書との向き合い方は、私たちの信仰生活の中でも生かせるかもしれません。私たちの身の回りで起きている社会問題や政治情勢を見る時、また個々の生活や教会の問題を見る時、そこに何を見るでしょうか?旧約聖書や新約聖書の中で働かれた神が、今も働いて下さるという信仰をもって日々生きられれば、とても素晴らしいことだと思います。

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