神の招き⑧「士師記の女たち」

8月20日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/635908089

先週から新しい章「放浪から王政へ」に入り、出エジプト後からイスラエルが王国になるまでの出来事を取り上げながら、このシリーズで繰り返し取り上げている「模倣」「供犠」「スケープゴート」などのテーマを色々な例話から探っています。

様々な「供犠」

前回は「スケープゴート」という題で、ヨシュア記7章のアカン一家の処刑のおぞましい話を取り上げました。そして、前章の「律法」の最後の学びでは、「聖書の二つの声」という題で「供犠」について詳しく見ていきました。そこで思い出していただきたいのですが、聖書には供犠を明確に命じるテキストもありますが、それに明確に反するメッセージも含まれています。レビ記などではどのようにして生贄を捧げるかが詳細に規定されていますが、多くの預言書では「神は生贄など望んでいない」という言葉がはっきりと語られています。イエスもホセア書やエレミヤ書から引用し、同じことを言っています。

「供犠」はこのシリーズでも大きく取り扱っていますが、聖書でも社会的な文脈でも様々なレベルで供犠が語られます。ここで、混乱を避けるために、供犠は3つの段階に分けて考えたいと思いますれる。

①人身御供
実際に人を神に捧げてそれでコミュニティの問題解決を図る供犠行為です。昔は実際に行われていました。聖書はこれに対しては強く反対し、それを行う者に死罪を言い渡しています(レビ記20:2など)。しかし、実は元々イスラエルでも神に子供を捧げる人身御供が行われていたことを仄めかす文章が断片的に聖書に残っています(出エジプト記13:2、22:29-30など)。アブラハムがイサクを捧げる物語(創世記22章)は、イスラエル民族がその道から抜け出したことを象徴していると考えられます。

②象徴的供犠
人ではなく動物など捧げることによって神の厚意を得、そのように神との関係を持とうとします。これは律法の中で命じられていますが、預言書で反対されていて、イエスも反対します。この象徴的な供犠行為は、神をどのような方だと考えるかに大きく関わってきますし、さらに十字架や罪・罰に対する考え方(贖罪論)にも影響します。多くの人はこのような神像を無批判に聖書から受け入れますが、神はそのようなことを本当は望んでおらず、そこからさらに恵みと愛に溢れる神との出会いに導いて下さっている、というのがこの学びの大きな主張ポイントの一つです。イエスが啓示した本当の神は、異教の神々とは根本的に異なる方であることを知れば、個人の信仰やコミュニティとしての教会に対する考え方も変わってくるでしょう。

③社会的供犠
社会を円滑に保つために特定の人達を抑圧・搾取することを指します。①と同様、実際に人が殺されることも多々ありますが、①のように誰にも分かる形で宗教儀式として行いませんが、構造や制度、または「伝統」として固めることで、人々は無批判にこれを受け入れてしまいます。聖書もそのような社会構造を正当化しているように読める部分もありますが、聖書全体としては、人々が無自覚になっている構造的な差別を暴き、そこからの悔い改めを促しているのが随所に見られます。

今日は、聖書の「女性」の扱いについて取り上げます。日本も長らく男尊女卑社会だと言われていますし、聖書の世界もかなりの男性優位社会で、少なくとも文献から見られる限りでは女性の地位はかなり低かったと考えられます。聖書はそれを当然のこととして話が書き進められている箇所もあれば、それに逆行するような女性観が見られる箇所もあります。今日は士師記から見ていきます。まず、旧約聖書の7番目の書物である士師記の大まかな流れを説明します。

士師記の前のヨシュア記では、荒野での40年の放浪から、ヨルダン川を渡ってカナンの地にイスラエル民族が入ってきます。エリコの町を勝ち取ったのち、それぞれの12部族が定められた地を征服して住み着いていきます。しかし、神が命じたとおりにカナン人を完全に駆逐することには失敗します(1章)。ヨシュアの死後(2章)、イスラエルは王はおらず、「士師」と呼ばれる人がイスラエルのリーダーとなり、イスラエルを圧迫すようとする近隣の民族に対抗します。

デボラ

3章には、オトニエルとエフドという士師が短く登場しますが、4章ではデボラという女性の預言者がイスラエルを治めていたことが記されています。

1 その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。
2 それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた。
3 彼は鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に叫び求めた。
4 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。
5 彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。
6 あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。
7 わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」
8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」
9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。
10 バラクはゼブルンとナフタリをゲデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。
11 ケニ人ヘベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。
12 一方シセラは、アビノアムの子バラクがタボル山に登った、と知らされたので、
13 シセラは鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、ハロシェテ・ハゴイムからキション川に呼び集めた。
14 そこで、デボラはバラクに言った。「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」それで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼について行った。
15 主がシセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で逃げた。
16 バラクは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムに追い詰めた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者はひとりもいなかった。
17 しかし、シセラは徒歩でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げて来た。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったからである。
18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。
19 シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。
20 シセラはまた彼女に言った。「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか』とあなたに尋ねたら、『いない』と言ってください。」
21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところに近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。
22 ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。
23 こうして神はその日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを服従させた。
24 それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。

ここでのデボラのリーダーシップは、他の男性の士師たちを凌ぐほどのものです。実際に戦いに出て行ったバラクは「あなたが一緒に来ないと行きません」と、完全に彼女を精神的な支柱として考えています。さらに、ここでは女性が指導者として活躍するだけでなく、イスラエルを圧迫し続けていた憎き将軍のトドメを刺すのも女性です。

5章では、デボラの賛歌が記されています。これは、旧約聖書の中でも文献的に最も古い箇所の一つだと言われています。女性がリーダーとして治め、活躍するというケースは、かなり古くから当然のように認められていたということでしょう。さらに、デボラは後に出て来る男性の士師たちのように偶像礼拝に走ったり、道徳的な大失敗を犯したりもしません。王政前のイスラエルを救った名君として語り継がれます。

デボラのあとは、クリスチャンにも大人気のギデオンが登場します。あまり知られていないのですが、ギデオンも神の力によって輝かしく活躍して勝利したあとは、偶像礼拝に陥ってしまいます。さらに、彼の息子であるアビメレクは、ギデオンの死後に自分の兄弟を皆殺しにし、異邦人と同盟を結んで王のように振舞います。しかし、彼は最後には戦いに敗れて死にます。彼に致命傷を負わせたのも女性です。無名の女性が塔の上から岩を落とし、彼の頭に命中します。女に殺されるという恥を避けるために、彼は家来に自分を刺殺するよう命じます。

エフタの娘

その後、アモン人による抑圧に遭い、今度はエフタという人物が士師として登場します。彼は「主の霊」によって勝利を収めますが、その中でおぞましい出来事が記されています。士師記11章の後半にその話が出てきます。

29 主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ついで、ギルアデのミツパを通って、ギルアデのミツパからアモン人のところへ進んで行った。
30 エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
32 こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。
33 ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。
34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」
36 すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」
37 そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」
38 エフタは、「行きなさい」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。
39 二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女におこなった。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、
40 毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。

本当に救いようのない酷い話です。なぜエフタはそのような誓いを立てたのか?最初から人間を生贄にする気だったのか?なぜ彼の家族や親戚はそんなことを許したのか?様々な疑問が湧きます。また、彼女が一人の人間として殺されたことを嘆くのではなく、彼女が処女だったことを嘆いていることにも、非常に歪んだ女性観が窺えます。

エフタのあとにはサムソンが登場します。サムソンは生まれた時から髪を切らず、それによって常人離れした力で活躍したり、時には好き放題して周りに大きな迷惑を掛けたりします。その中でも、サムソンと結婚したペリシテ人の妻が、サムソンの暴虐の責めを負って他のペリシテ人に焼き殺されます。後に恋に落ちた娼婦デリラ、サムソンを欺いてペリシテ人に引き渡す悪役を演じます。やはり女性の描かれ方が酷いです。

キブア事件

士師記の最後の19-21章には、女性の酷い扱いが多々見られる旧約聖書の中でも、特に背筋が凍るような凄惨な事件が描かれています。創世記19章のソドムの話と類似する部分も多いです。19章を詳しく見ていきます。

1 イスラエルに王がなかった時代のこと、ひとりのレビ人が、エフライムの山地の奥に滞在していた。この人は、そばめとして、ユダのベツレヘムからひとりの女をめとった。
2 ところが、そのそばめは彼をきらって、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの自分の父の家に行き、そこに四か月の間いた。
3 そこで、彼女の夫は、ねんごろに話をして彼女を引き戻すために、若い者と一くびきのろばを連れ、彼女のあとを追って出かけた。彼女の夫を自分の父の家に連れて入ったとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。
4 娘の父であるしゅうとが引き止めたので、彼は、しゅうとといっしょに三日間とどまった。こうして、彼らは食べたり飲んだりして、夜を過ごした。
5 四日目になって朝早く、彼は出かけようとして立ち上がった。すると、娘の父は婿に言った。「少し食事をして元気をつけ、そのあとで出かけなさい。」
6 それで、彼らふたりは、すわって共に食べたり飲んだりした。娘の父はその人に言った。「どうぞ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。」
7 その人が出かけようとして立ち上がると、しゅうとが彼にしきりに勧めたので、彼はまたそこに泊まって一夜を明かした。
8 五日目の朝早く、彼が出かけようとすると、娘の父は言った。「どうぞ、元気をつけて、日が傾くまで、ゆっくりしていなさい。」そこで、彼らふたりは食事をした。
9 それから、その人が自分のそばめと、若い者を連れて、出かけようとすると、娘の父であるしゅうとは彼に言った。「ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうぞ、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって、楽しみなさい。あすの朝早く旅立って、家に帰ればいいでしょう。」

「そばめ」という訳に関しては意見が分かれます。普段「妻」に相当するヘブル語とは別の言葉が使われているので「そばめ」と訳されることが多いですが、立場的に妻と変わらないと考えられます。この女性は、結婚相手が気に入らなかったので、そこを去って実家に帰ります。自分の自由意志に基づいた行動ですが、筆者は勝手に自分の意志で行動する女性を凄惨な目に遭わせます。父親は、自分の意志で帰って来た娘を守るのでもなく、その舅と仲良くなります。なぜ何日も出発を引き留めたかは分かりません。

10 その人は泊まりたくなかったので、立ち上がって出て行き、エブスすなわちエルサレムの向かい側にやって来た。鞍をつけた一くびきのいろばと彼のそばめとが、いっしょだった。
11 彼らがエブスの近くに来たとき、日は非常に低くなっていた。それで、若い者は主人に言った。「さあ、このエブス人の町に寄り道して、そこで一夜を明かしましょう。」
12 すると、彼の主人は言った。「私たちは、イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう。」
13 それから、彼は若い者に言った。「さあ、ギブアかラマのどちらかの地に着いて、そこで一夜を明かそう。」
14 こうして、彼らは進んで行った。彼らがベニヤミンに属するギブアの近くに来たとき、日は沈んだ。
15 彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って行って、広場に座った。だれも彼らを迎えて家に泊めてくれる者がいなかったからである。
16 そこへ、夕暮れになって野ら仕事から帰ったひとりの老人がやって来た。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに滞在していた。この土地の者たちはベニヤミン族であった。
17 目を上げて、町の広場にいる旅人を見たとき、この老人は、「どちらへおいでですか。どちらからおいでになったのですか」と尋ねた。
18 そこで、その人は彼に言った。「私たちは、ユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥まで旅を続けているのです。私はその奥地の者です。ユダのベツレヘムまで行って来ました。今、主の宮へ帰る途中ですが、だれも私を家に迎えてくれる者がありません。
19 私たちのろばのためには、わらも飼葉もあり、また、私と、妻と、私たちといっしょにいる若い者とのためにはパンも酒もあります。足りないものは何もありません。」
20 すると、この老人は言った。「安心なさい。ただ、足りないものはみな、私に任せて。ただ広場では夜を過ごさないでください。」
21 こうして彼は、この人を自分の家に連れて行き、ろばに、まぐさをやった。彼らは足を洗って、食べたり飲んだりした。

外国人の町で泊まるのは怖い、という先入観から、ベニヤミン族の地域にあるギブアという町まで行きますが、そこでも宿はありません。すると、別の地域からそこに移り住んだ人の家に迎え入れられます。これも、ソドムを訪ねた神の使いたちがソドム人ではなくロトに迎え入れられたのと似ています。

22 彼らが楽しんでいると、町の者で、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで、戸をたたき続けた。そして彼らは、その家の主人である老人に言った。「あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」
23 そこで、家の主人であるその人は彼らのところに出て行って言った。「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。この人が私の家に入って後に、そんな恥ずべきことはしないでくれ。
24 ここに処女の私の娘と、あの人のそばめがいる。今、ふたりを連れ出すから、彼らをはずかしめて、あなたがたの好きなようにしなさい。あの人には、そのような恥ずべきことはしないでくれ。
25 しかし、人々は彼に聞こうとしなかった。そこで、その人は自分のそばめをつかんで、外の彼らのところへ出した。すると、彼らは彼女を犯して、夜通し、朝まで暴行を加え、夜が明けかかるころ彼女を放した。

ここもソドムの話と酷似しています。まずその男たちを「知りたい」、つまり彼らを性的に犯したいということです。これは、古代中近東ではよそ者を辱める意味で行われていたことで、ソドム同様、同性愛とは何の関係もありません。ここでも、家の主はロトと同様、二人の女性を身代わりにしようとします。残念ながら神のような超自然的な力で目潰しを喰らわせることはできず、このレビ人はベツレヘムから連れ戻してきた自分の妻を無理矢理外へ出します。

26 夜明け前に、その女は自分の主人のいるその人の家の戸口に来て倒れ、明るくなるまでそこにいた。
27 その女の主人は、朝になって起き、家の戸を開いて、旅に出ようとして外に出た。見ると、そこに自分のそばめであるその女が、手を敷居にかけて、家の入口に倒れていた。
28 それで、彼はその女に、「立ちなさい。行こう。」と言ったが、何の返事もなかった。それで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分の所へ向かって行った。
29 彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分のそばめをつかんで、その死体を十二の部分に分けて、イスラエルの国中に送った。
30 それを見た者はみな言った。「イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。」

本当に何から何まで酷い話です。彼女を暴行して死なせたギブアの人たちは当然ですが、このレビ人も、自分で彼女を暴徒に差し出しておいて「立ちなさい、行こう」と声をかける神経はどこまでも不可解です。そして自分の妻の死体を切り分けて、自分が被害者であるかのように振舞って、イスラエル全土を戦争へと駆り立てていきます。20-21章では、ギブアの人たちを罰を受けるために差し出すことを拒んだベニヤミンが、残りのイスラエルの部族から総攻撃を受け、自分たちの町々は根絶やしにされ、男も女も皆殺しにされます。

戦いから逃れた600人のベニヤミン族だけが生き残って荒野で生活をします。イスラエルの人たちは、自分たちのうちの1部族が滅亡することはだけは避けたいと思いますが、自分たちの娘をベニヤミン族には嫁がせない、という誓願を既に立てていたようです。そこで、神に生贄を捧げる儀式に1部族だけ来ていないことを口実に、その部族を攻撃し、男と、男と寝たことのある女を皆殺しにし、処女だけを捕虜にして連れてきます。400人確保し、それを生き残ったベニヤミン族に嫁がせます。しかしまだ200人ほど足りないので、年に一度の祭りの際に、女性が畑で踊っているときに、まだ相手がいないベニヤミン族の男性が彼女たちを略奪させるようにします。こうして、ベニヤミン族は何とか生き延びることになるのです。

このように、士師記の最後は、誰でも読めばゾッとするような酷いミソジニーがそのまま描かれています。

ヨハネの福音書の女性たち

では、聖書は初めから最後までずっと女性をこのようにモノ扱いしているのでしょうか?子孫繁栄のための道具にすぎず、自分の意志で行動することが許されず、ただ男性に従属して生きるべき存在と考えているのでしょうか?そうでもありません。

新約聖書、特に福音書では女性がたくさん出てきますし、概ね肯定的に描かれていると言えるでしょう。特にヨハネの福音書では、他の福音書で男性弟子が演じている役割が女性によって演じられていることもあります。ヨハネの福音書の執筆に女性の手も加わっていたという説も実際にあります。

まず、2章では、イエスの母マリアが、婚礼の場でぶどう酒がなくなったことをイエスに告げ、イエスは奇跡的に水からぶどう酒を作ります。

4章では、イエスはユダヤ人ではなくサマリア人の女性と井戸の傍で会話をします。そのシーンを見ましょう。

ヨハネ4:3-30

主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

イエスとここまで深い神学的な話(どこで礼拝するのか、メシアが来るときのこと)をし、さらに自分の町の人々にもイエスのことを伝えます。

8章では、「姦淫の女」と呼ばれる話があります。ご存知でしょうが、姦淫の場で捕らえられた女性だけが連れてこられます。男が居ないのは明らかに不審です。イエスはその女性をスケープゴートにしようとする男たちの意図に乗らず、女性を守り、彼らの罪深さを指摘して解散させます。

11章では、兄弟であるラザロを亡くし、悲しみに暮れているマルタとマリア姉妹とイエスが会話するシーンがあります。

11:19-27

大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

イエスを神の子キリストだと宣言する言葉は、思い当たる節はないでしょうか?そうです、ペテロの宣言です。他の福音書では、ペテロがこの宣言をしています(マタイ16章、マルコ8章、ルカ9章)。しかしこの福音書では、マルタがこの宣言をしています。

しかし、極めつけはやはり復活のシーンでしょう。

20:1-18

さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。

しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

ヨハネの福音書ではイエスの生前に「イエスこそキリストだ」というのも女性、サマリア人にイエスを広めるのも女性、復活を語るのも女性です!

またパウロはガラテヤ3:28で、神にあって「男も女もない」と言っています。勿論、新約聖書も男尊女卑の前提で書かれているので、差別がない訳ではないですし、近年に見られるフェミニズム運動がそこに見当たる訳でもありません。しかし、聖書は社会的供犠によって苦しむ人々、構造的差別によって古来からずっと抑圧されている人々を解放するメッセージを語っているのです。旧約聖書から新約聖書に移る中で、女性の描き方が大きく変わっていることが分かります。

私たちの使命と責任

しかし、そこで終わりではないです。聖書が示している視点の移り変わり、人間社会において当たり前だったことを、あるところでは当たり前に描きつつ、それを受け彫りにして批判するスピリットを受け取って、今の社会の「当たり前」にチャレンジしていくのが私たちの使命ではないでしょうか?

また、聖書の言葉も、そのまま「当たり前」として受け取るのではなく、聖書著者によって被害者にされている人たちの中に、十字架のイエスの叫び声を聴くようになる必要があるのではないでしょうか?神は、イエスを復活させることで、彼を無実だということを立証しました。イエスの十字架の死は、不当なリンチ殺人だったのです。

レビ人の「やもめ」も、自分の意志で実家に帰っただけなのに、父親も守ってくれない、そして連れて帰られるかと思ったら、男の身を守る為の生贄にされる、そして自分が死んでも自分の死が悼まれることもなく、男同士の戦争に発展し、それでまた女性が搾取される・・・この女性に十字架のイエスを重ねることができるでしょうか?ヨシュアとイスラエル全体に石打ちで殺されたアカン一家の中に十字架のイエスを見出すことができるでしょうか?

今の社会に蔓延る差別や不義を解消するために励みつつ、より倫理的で解放的な聖書の読み方も追求していく責任があるのではないでしょうか?

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