神の招き―亡国の日々

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聖書の読み分け

ここ2回は「エリヤとエリシャ」を中心に聖書を学んできました。彼らの預言者としての功績・言動について、また福音書のイエスがこの2人の人物の言動をどう捉えたかについても考察しました。

両預言者が国境を越えてイスラエル以外の民族をも祝福したことについては、イエスは大いに肯定し、イエス自身の時代にも根付いていた排外主義・国粋主義に対して命をかけて戦いました。しかし彼らが示した暴力性や因果応報的な罪と病の関係性については、明確に拒絶しました。

聖書は、そのような二種類の考え方の対立がずっと描かれていることが読み取れます。聖書はどこを切っても「すべて神の言葉だ」という読み方であれば気付かないでしょう。人を皆殺しにするのも、罪ゆえに病をその人だけでなく子孫にも呪いとして与えるのも真の神の姿、また自分の命を捧げてまで人を救い、罪と病の因果関係を否定して罪も病も寛大に癒すのも真の神の姿。そのようなチャンポンした自己矛盾の神ができてしまいます。人間社会はこのような自己矛盾に満ちていますが、神は矛盾される方ではありません。新約聖書の、そしてキリスト教としての告白は「イエス・キリストこそが神」です。ですから、イエスを基準に、聖書の中の神像が、「真の神をあらわす啓示なのか」「人が自分たちの暴力をや差別を投影して描いた神なのか」を判断してもいいのです!

その判断が必ず正しいというわけではありません。私たちが社会的・時代的影響を受けて聖書を読み、そこにないものも拾ってしまうことは避けられません。しかし、だからと言って聖書に書いてあるというだけで「その通り」にすべてを正しい神像として受け入れる必要は全くないのです。頭を使い、聖書に書いてあることを他の聖書の箇所と比べたり、また自分たちの時代的・社会的制約にも敏感になりながら読むことで、真の神の姿を読み分けることができます。当然、自分たちが好きな神様になっていないか、自分たちの思想や主義を押し付けた神にしていないだろうか、というのは常に気を付ける必要があります。その判断に役立つのが「人間論」という考え方です。

人間の習性については、人類学や社会学、心理学などの知見から様々なことが言えます。、聖書を探っていくと、聖書にも「人間とはこのようなものだ」と位置付ける一定のパターンがあると考えら、それを「聖書の人間論」と呼ぶことができます。このシリーズの中でも、人間が常に集団的暴力の方向へ行ってしまうこと、自分たちの問題を肩代わりして犠牲になる「スケープゴート」を中心として供犠的な社会になってしまうことを学びました。それが聖書の人間論です。その人間論そのままに描いている神像は、人間の投影と判断できます。しかし、そのような人間論からは到底考えられない神像、或いはそれに逆行する神像は「真の神の啓示」と考えられます。他の古代の宗教の考え方や、聖書に見られる人間論、あるいは聖書外の人間論研究から考えても、このような神を人間が考え出すことは非常に考えづらい、と思えるような知見が聖書には確かにあるのです。

そして、それが「イエス・キリスト」という人によって最大限にあらわされているのです。イエスこそが全宇宙の創り主なる神の最終的かつ最も真正な「顕現」なのです。

このシリーズではここまで見てきた人間の特性、つまり暴力的であること、そして自分たちの社会的秩序を守る為、強者のレトリックを唱え続けるために弱者を犠牲にすることなどは、創世記からずっと浮かび上がってきます。その中で「イスラエル」という民族が中心となって、そのような生き方から離れて、すべての人を愛して恵みを与える方、人間社会の犠牲や復讐のサイクルとは全く無縁の方に導かれ、新たな生き方へと歩んでいく物語が描かれています。その中で、自分たちとは違う人たち、自分たちの中にいる不都合な人たちを排除するレトリックと、そのような属性に関係なく神がすべての人を祝福し恵まれるというレトリックがぶつかり合っているのです。

亡国と捕囚

そのテーマは、聖書の中でずっと続くのですが、それが大きな転換期を迎えます。そのレトリックが、新たなレベルへと引き上げられます。それを引き起こした一大イベントは、捕囚です。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、南のユダヤがバビロンに滅ぼされます。大勢の人たちは、捕囚としてバビロンへ連れて行かれます。

今まで、ヤハウェを信仰し、神殿や祭司を持ち、モーセの律法があり、国としてのアイデンティティをもって生きてきたイスラエル・ユダヤの人たちが、それらをすべて失います。異国の地、異国の神々の間に住まわされ、異国の風習や食文化を押し付けられます。生き延びる為には律法など守れるはずもなく、神殿もないので自分たちの宗教として定められた礼拝もできません。自分たちが心から軽蔑してきた異国人の世話になるしかなく、その人たちの言うことを聞くしかなく、彼らの「忌み嫌うべき」生き方を真似るしかありません。

しかしこの中で、ユダヤ人たち、とりわけヤハウェ信仰を篤く保つ人たちの間で、神についての新たな思想が生まれてきます。創世記含め、旧約聖書の多くの箇所、キリスト教の思想にも深く浸透している多くの物語は、この歴史的状況の中で生まれたものと考えられています。

このシリーズの学びでは、ユダヤとイスラエルの王たちの業績など歴史的な事柄(列王記や歴代誌の記述がどこまで『史実』かという議論は一旦横に置きます)について深く学びことはできませんでした。ヒゼキヤ王やヨシア王の改革など、深い考察に値する箇所たくさんあります。ここでは、エリヤとエリシャが預言を行った時代から、イスラエルとユダヤの滅亡までをサラっと纏めます。

エリヤが預言を行った時代のアハブ王の後に息子のアハズヤが即位、アハズヤ病死(エリヤの預言どおり)後に弟ヨラムが即位します。後にエフーという人物がヨラム王およびアハブ一家を虐殺して王になります。彼は神に油注がれたと書かれてあり、北の王では唯一神に従って善を行ったと書かれていますが、極端なまでに暴虐的な様は後に預言者たちによって非難されています。彼のあとにエホアハズ、ヨアシュ、ヤロブアム2世、ゼカリヤ、シャルム、メナヘムと続きます。メナヘム王の時代にアッシリアが攻めて来ますが、銀を払うことで撤退させることに成功します。メナヘムの後にはペカフヤ、その後にペカが王となり、ペカ王の時にアッシリアが再び襲来し、イスラエルの住民の多くをアッシリアへ移します(15章)。ペカの後に王となったホセア王の時には、アッシリアが首都のサマリアを3年間包囲し、王を捕らえて北イスラエルは滅亡します(17章)。歴史上、紀元前721年のことと考えられています。

一方、ダビデとソロモンの血筋を直接引く南のユダヤは、ソロモンの子レホブアム、アビヤム、アサ、ヨシャパテ、ヨラム、アハズヤと続きます。アハズヤの死後に彼の母のアタルアが一時的に女王として振舞いますが、アハズヤの子ヨアシュが彼女から王位を奪い返します。その後アザルヤ(=ウジヤ)、ヨタム、ヒゼキヤと続きます。ヒゼキヤの時にアッシリアの王が来て支払いを要求しますが、ヒゼキヤが神に祈ると、神の力によってアッシリアの王が打ち負かされたとあります(19章)。その後マナセ、アモンと続き、アモンが部下に殺害されると幼少のヨシア王が即位します。ヨシアの時代に律法の書が見つり、過ぎ越しが祝われる、という出来事が起こります。その後ヨシアはエジプトの王に殺され、跡取りのエホアハズはエジプトで捕虜となり、エホアハズの弟のエホヤキムが即位します。その代にバビロンのネブカデネザル王に攻められ降伏しますが、3年後に反乱を起こし独立します。エホヤキムが死んでエコニアが即位すると、エルサレムをネブカデネザルに譲って再び降伏します。その後ゼデキアが王となりますが(23章)、彼はネブカデネザルの怒りを買ってエルサレムを包囲されます。紀元前597年、エルサレムは陥落し、ゼデキアの息子たちは殺されてゼデキア王は両目をくり抜かれ、彼と共に大量のユダヤの民が捕囚としてバビロンへと連行されます。その前に一早く降伏したエコニアは後に獄中から解放され、王の食卓で食べれて扶持まで与えられる厚遇を受けます。

こうしてイスラエルもユダヤも滅亡し、上述のように、異国の中で宗教、食文化、安息日、祝祭、生贄など、自分たちのアイデンティティと結び付くものが全く何もできない、という日々が訪れるわけです。しかしその中でもイスラエルの人達は、唯一神ヤハウェへの信仰は棄てませんでした。寧ろ、神とは本当はどのような方なのかということを思いめぐらし、新たな神や人間についての考察を進め、自分たちの間でも議論を重ね、画期的な神概念を世に打ち出していくことになるのです。

捕囚時期の中で発展した思想

捕囚の中で生まれたものもあれば、以前からも語られていたのがさらに強く語られるようになったものもあるでしょうが、その中でも、このシリーズで伝えようとしていること、そして聖書全体のメッセージを理解する上で重要と思われる4つの思想を列挙したいと思います。

すべて人間の罪のせい

創世記序盤の失楽園物語もノアの方舟物語も、この時代にメソポタミアの神話を自分たちの神観に合わせて書き換えたと考えられています。元のストーリーがあるからこそ不可解な要素や暴力的で受け入れ難い要素もありますが、それぞれのストーリーが語る神観には決定的な違いがあります。メソポタミア神話の創造物語は非常に暴虐的な神々が殺し合いを死ながら世界が誕生していきますし、洪水神話ではある神が人間の声がうるさいことに腹を立てて洪水を送ったとされています。しかし創世記の著者たちは、創造物語では完全に非暴力の神を描き、そこから堕落した世界へと変わったいったのは、人間が神に背いたからだと説明しました。またノアの方舟物語では、人間の暴虐が極限までに達したことで神が洪水を起こされたと書きました。

その後の創世記の物語は、バベルの塔、アブラハムの旅、そしてヨセフ一家のエジプト移住によって起きた出エジプトまで、すべてある地から追い出されてから神に導かれて戻っていく、というパターンが見られます。人間が罪を犯し、その結果として災難に遭い、神がそこから助け出して下さる、という物語を旧約聖書の多くの箇所に見つけることができます。

これを一般化しずぎるのも危険ですし、これを特に社会的な構造によって苦しむ弱者に押し付け、その人たちを罪人呼ばわりすることをイエスは肯定していません。しかし「神がそうされたのだ」「神の意志だから逆らえない」という無責任な態度を改め、「私たちに非があるのだ」「私たちが変わらなければならない」と内省的になるのは非常に素晴らしいことだと言えるでしょう。イエスも、罪の結果として滅びに至ることを完全に否定したわけではありません。、

ルカ13:1-5

ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

マタイ23:33-36

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。 38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

このように、特に宗教指導者たち、国や民を導く立場にある人たちには、まずい決断や人の命を蔑ろにするようなことをし続ければ、それは破滅へと繋がるのだという警告を発しています。

②神は我々も敵も同等に愛して下さる

これも既にこのシリーズでも取り上げました。エリヤとエリシャが、サレプタのシドン人の女性やシリアの将軍ナアマンを癒すなど、イスラエル人だけでなく異邦人にも神の祝福を届けました。イエスもこのことを福音書で肯定しました。これについては、また別の回に詳しく見たいと思います。

③神は私たちを見捨てられた・・・いや、見捨てていない!

自分たちを導く神殿も律法もない状態に陥りました。自分たちの罪のゆえに、ついに神はイスラエルを見捨ててしまったのか?罪を犯せば神は罰を与える、神の前から不忠の民を追い払う、という警告や預言は旧約聖書の中には多々見られます。自分たちの歴史の中でも神によって滅ぼされた民族はありました。ついに、自分たちも神に背いたから神に見捨てられたのか?そう考える人もたくさんいたでしょう。

しかし、その中で「いや、神は我々を見捨ててなどいない」という預言の声も大きくなっていきます。また神殿や律法の字義に拘らない新しい宗教観、新しい神への従い方に関する思想も生まれてきます。神は新しいことをされている、新しい境地へと我々を導いて下さっている、という確信が生まれます。これについては預言者にフォーカスして学ぶときにより詳しく掘り下げますが、ここでも預言書から何箇所か紹介したいと思います。

イザヤ49:14-17

しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが輪据えても、このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。あなたの子どもたちは急いで来る。あなたを滅ぼし、あなたを廃墟とした者は、あなたのところから出て行く。

エレミヤ31:31-34

見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ―
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを。書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

エゼキエル36:24-27

わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。

これに関しては、イエスもこの地上を去る前に同じようなことを弟子たちに語っています。それまで「イエス」というカリスマ的な指導者にずっとついていきましたが、イエスがいなくなった後弟子たちはどうするのか?それに対して「聖霊を送る」と語られました。その聖霊は、私たち信者の心に働き、イエスが物理的に傍にいなくても、私たちが良心に基づいて判断ができるように助けて下さるのです。そのような意味でイエスは「私はあなたがたを孤児にはしない」と言いました。

ヨハネ14:16-21

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

④神は弱者の味方だ

捕囚の頃から、孤児や未亡人、在留異国人の命と尊厳を守ることを強調する声が強くなっていきます。律法の字義を守ることよりも、正義と憐れみを示すことのようが神の御心にかなう、という考えが浸透していきます。次のような聖句にその思想が見られます。

イザヤ1:16-17

洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。

エレミヤ22:3

主はこう仰せられる。公義と正義を行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。

イザヤ58章には、断食について有名な箇所があります。
6-11

わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。

当然イエスもこれに同調します。「羊と山羊」の譬え話は非常に有名です。

マタイ25:31-46

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

イスラエルが弱い立場、完全に征服される立場を経験したからこそ、このような考えが強まったとも考えられます。しかし、それは「神は弱者の味方をするように私たちに求めている」や「神は弱者の味方をされる」ということだけでなく、一般的に人間界で考えられる「弱さ」を自分たちの神像の一部として捉える非常に画期的な思想も芽生えたのです。神は上から支配するからではなく、遜って人間にも仕える方であり、命をも惜しまずに捧げる方。それを人となって身をもって教えてくれたのが、イエス・キリストです。

マタイ20:25-28

そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

ピリピ2:6-11

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人間と同じようなかたちになり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

神の「栄光」

ユダヤ人はその後も歴史的にずっと虐げられてきました。黒死病が流行った時など、「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」と罪を着せられて虐殺されたこともありました。そうやってずっと被害者、弱者の立場を強制されてきました。キリスト教も本来そうであり、同じように虐げられた人たちと連帯を示し、誰も助けない人を助けました。昔は伝染病が流行れば病人は外に放置されて死ぬだけでしたが、クリスチャンはそのような病人の看護をするようになり、、また親に棄てられて死にゆく運命にあった子供を拾って育てたりもしました。迫害に遭って多数が殺される中で信仰を守り抜きました。そのような弱者の中にこそイエスがおられると信じていました。

しかし、そのうちキリスト教が帝国の国教となり、迫害を受ける側から異教徒を迫害する側になってしまいました。権力も富も手に入れたキリスト教は、いつしか強いイエス、強い神、復活して敵を全てボコボコに打ち負かす神しか思い描けなくなってしまいました。今の私たちの教会も、そのような神イメージを多分に受け継いでいます。それが本当に聖書が教える神なのでしょうか?弱い者たち、強くあれない、正しく生きられない、社会に認められない人たちは、神に呪われているからでしょうか?いや、その人たちと共に神が居て下さるのです。そうやって、最も苦しんでいる人たちと共に重荷を荷い合うのが、キリストの弟子ではないでしょうか。

そこに神の栄光が示されますその栄光とは、やはり人間が思い浮かべるような強さや勝利に輝く姿ではなく、十字架の上でズタズタに切り裂かれた神の子の姿です。すべてを武力で打ち破るのではなく、その道しか知らない我々人間に対して、逆に自分自身の命を捧げる姿を示すことによって、全く新しい生き方、人間としてのあり方を教え、そのあり方によって定義づけられる「神の国」へと我々を招いて下さるのです。

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