「精神障害とキリスト教」(2)by clover

 Twitterで知り合ったぼやき牧師と何度かやり取りをして書くことになったこの文章。私に限って言えば、イエスも神も「くそ喰らえ」だ。私は人間ができていない。不満でしかない。同じ年頃が仕事に家庭にと勤しんでいる時に、私は不本意ながら「精神障害者」をやっている。皆は「その役割を担ってくれている」というが、どうして私がと思う。

 私は神に救いを見出せていないし、自殺願望が強くなる度に、「もういいでしょ、神様」と哀願している。だが、現時点生きている。そのことに心から感謝する日は来るのだろうか。

 ある人は、イエスは寄り添ってくれているという。だったら見てないで助けてくれとも思う。私より辛い立場の人がいるとも言われる、分かっているが私も辛い。どうしてみんな生きていけるのか分からない。未だに希望も見つかっていない。

 聖書で唯一、私のことを分かってくれると思ったのは、ヨブ記だった。ヨブは散々な目に合わされて嘆き悲しみ、でも神を忘れていなかった。苦悩していた。それが自分のように思えて、ヨブ記が一番好きだと言うと、皆の頭の上に?が見えた。

 私は神様を嫌いと言いながらすがっている。それはやっぱり、「創造主」であることを信じているからだと思う。そして、だからこそ対峙するのである。「私はどう生きればいいのかわからない」「なんでこんなことになった」、そしてその間に垣間見る、「ありがとうございます」。人より嘆きが多いとは思うし、乗り越えられない試練ばかりじゃねえかといつもキレている。それでもそこに「愛」があるというのが、いずれ分かることなんだろうとも思う。小出しで分かってきたのだから、人生かけて知っていくものだと思う。

 私は「精神障害者」であることを比較的オープンにしている。それは私が「赦されている」と思えるからかもしれない。そしてそれが私の求めている「希望」であり、救いなのかもしれない。

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