寄稿「そううつ人生を通して出会う神、人、希望」By いく坊

 双極性障害は、精神疾患のなかで、もっとも自死率が高いのですが、私の考える一番の理由は、社会的な立場が危うくなる病気だからだと思います。

 依存症を併発するケースもあり、「生きづらさ」が、更なる「生きづらさ」をうみだすことも、人によってはあります。私もその傾向がありました。

 私は1型で、躁状態のときは非常にテンションが高く、人に対してアグレッシブになったり、散財をしたことが何度もありました。いくら躁状態にしてしまったこととはいえ、周りへのイメージや信頼の回復は、そう簡単なことではありません。周りも、私自身も苦しみます。人によっては職を失ったり、離婚することもあります。

 鬱になって自分を責めるときは、「反省したら、もう自分いじめをせず、次に繋げればいい」とスッパリ建設的に考えるようにすることを心がけています。

 それから、(これが一番注意が必要なのですが)投げやりな気持ちや、ヤケになるのは避けること。といっても、これを止めるのは、私の場合、自分ひとりの力では難しいものでした。

 私がヤケになった一例に、一時、自分のお酒の飲み方が「危ない」と感じた時期がありました。そこに歯止めがかかったのは、このまま身を滅ぼしたら、教会の仲間や友だちが、きっと辛くなると思ったからです。

 そして、
 「このままではいけない。破滅してしまったら、今はわからなくても、将来自分を待っているはずの、果たすべきミッションを投げ出すことになってしまう。どんなに小さなことであっても、自分の果たすものがある以上、人生を投げ出したら本当におしまいなんじゃないか。」

 「自分が、悪人や、幼稚な人のように感じたり、また実際に多くの欠けがあったとしても、それを理由に人への奉仕を諦めてしまうのはちがう。自分の弱さに甘えたくない」
と思い、奮い立たされたことがあります。

 依存症への入り口から、更なる深みに入るのをなんとか阻止したのは、「希望」が与えられたからです。

 人生をチェスにたとえた人がいますが、「その勝負に勝つことが重要ではない。投げ出さないことだ」と言っています。

 私もどんなにつらいことがあっても、そこで諦めたり逃げたりすることをせず、微力であったとしても、自分に出来るミッションや奉仕が何かあるなら、することだと言い聞かせるようにしています。

とはいっても実際は、私の行いなど自己満足でしかないのかもしれないと思います。しかし、意味がないように思えても、私をまるごと愛してくださるイエス様に、出来るだけ愛し返す者でありたいと、(どれだけ行動に移せているかは恥ずかしい限りですが)イエス様の喜ぶことをしたいと思うようにしています。

 病人になることを、ひとつの「召命」という言い方をしている神父さんがいます。私にとっては双極性障害はあまりに酷で、避けられるものなら避けたい病でした。

 しかし、自分の力によって引き寄せたものでない故、貴重な恵みであり、大袈裟な言いかたですが、これが自分の受け入れるべき召命なのだと今は思えるようになりました。この病を与えられてこそ知らされることや、試されることや、気付かされる恵みが多々あったからです。

 「これさえ無ければ幸せだったのに」と思っているものが、逆に自分を真実へと導くものとなるのですから、神様は本当に不思議なことをなさるなあと思います。

 躁のときのハチャメチャぶりを笑い話にしてくれる友人。鬱のときにメールに付き合い続け、私が落ち着くまで、ひたすら気持ちを汲んでくれた方。早く元気になって働きたいと焦る自分に、ゆったり過ごしているデイケアの仲間たちが、「人はいるだけでいい」ということを教えてくれること。他にも、健康だった頃の自分なら知ることができなかったことを、病を通して神様は教えてくださいます。

 波がゆるやかになっている今でも、やはり躁の時には調子に乗りやすくなったり、鬱の時は自分を責めたりと、困ったところのある私は相変わらずです。周囲の理解に感謝しながら、今後もなるべくセルフコントロールを工夫していこうと思っています。

 「たとえ主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝を込めて、愛する手から受けよ」という讃美歌の歌詞があります。(教会福音讃美歌358番「善き力にわれ囲まれ」)

 人それぞれ、生きるうえで飲む杯は違いますが、私の飲む杯のひとつは双極性障害なのだと思っています。とても苦しい筈なのに、深い恵みに気付かされる「何か」とは、なんだか表裏一体です。

 この詞をかみしめ、拙文を閉じたいと思います。いつも共にいてくださるイエス様を信じ、双極性障害の波と付き合いながら、これからも恵みを示されるのを期待しつつ。

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