神の招きーエリヤとエリシャ其の1

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今までの流れ

今回と次回は「エリヤとエリシャ」というテーマを扱いますが、まずはその背景となるイスラエルの歴史を、今までのおさらいも含めて確認したいと思います。

前回10月で休止するまでは、「王国の誕生」というテーマで、主にダビデとソロモン王の話を取り上げました。それまでは、イスラエル民族は王ではなく「士師」と呼ばれる支配者によって収められていました。それぞれのイスラエルの12部族が独立した自治を行っていて、他民族との戦争の時など有事の際に士師がリーダーシップをとって纏めました。中には「王」のように長く治めて世襲制になったこともありましたが、王の宮殿もなく、12部族から税金を集めたり国全体の軍隊を持つこともありませんでした。しかし、サムエル記上で、人々が「王を下さい」と懇願します。主は、ご自分だけがイスラエルの王であるということからイスラエルのリクエストを退けますが、人々が懇願し続けたため、王を建てることをお許しになり、サウルが王として選ばれます。。

しかし後にサウルは神の命令に背いたことにより、神はサウルを退けてダビデを王とします。ダビデは異民族に対して勝利を重ね、国としてのイスラエルの基盤を確立させます。彼の後を継いだ息子のソロモン王は、知恵に満ちた王として莫大な富を誇り、ダビデが立てることを許されなかった神殿も立てました。ダビデ・ソロモンの時代は、イスラエル国の黄金期だったと言えるでしょう(あくまでも聖書の記述では)。しかし、ソロモン王の死後、イスラエル王国は南北に分裂してしまいます。

イスラエルの分裂

さて、ソロモンの配下にヤロブアムという男がいました。預言者のアヒヤという人が彼に「イスラエルから10部族を切り取ってあなたに与える」と伝えました。ヤロブアムの力を恐れたソロモンは彼を殺そうとしましたが、ヤロブアムはエジプトに逃れました。ソロモンの死後、ソロモンの子のレハブアムが後を継いで王となると、ヤロブアムはエジプトから戻ってきてレハブアムと交渉を持ちかけます。労働の過酷さを緩和してほしいという願いでしたが、レハブアムは部下のそそのかされてこれを拒絶します(1列王記12章)。これに対してヤロブアムが反乱を起こし、イスラエルの10部族も彼と共に蜂起して、レハブアムを攻撃します。レハブアムは命からがらエルサレムに逃げ帰り、ヤロブアムはシェケムで王として人々に建て上げられます。ここに北のイスラエルと、南のユダヤに国が分裂します。

レハブアムは、ヤロブアムに戦いを挑もうと考えますが、預言者のシャマヤに止めらます。ヤロブアムは、今や国が分裂した状態で、北イスラエルの民が南にあるエルサレムに上って礼拝するのは厄介だと考え、北にいるまま礼拝できるよう金の子牛を作ったり、レビ人でない祭司を任じたりします。12:33では新たな暦を使い始めたことも窺えます。

分裂後の北イスラエル

さて、ご存知の方も多いでしょうが、列王記と歴代誌は被っている部分が多いです。歴代誌を書いた人が、列王記を丸写ししたと考えられる部分もあります。しかし一つの大きな違いは、列王記は南北両方の歴史を綴っているのに対して、歴代誌は南のユダヤを中心に書いていて、北イスラエルは南と直接関わる部分にしか登場しません。

列王記の記述を中心にサラっとまず北の歴史をおさらいします。ヤロブアムが死んで子ナダブが王となります。その後、家来のバシャが反乱を起こしてナダブを殺し、またヤロブアムの家族も皆殺しにします。バシャの死後は息子エラが王となりますが、エラは家来のジムリに殺され、ジムリはエラの父バシャ一家を皆殺しにします。そのジムリも、将軍であったオムリという人に殺され、オムリは王として即位します。

聖書の記述では、王たちがヤハウェに従った善良な王だったか、偶像礼拝に走った悪い王だったかが書かれています。北イスラエルの王は、ほぼ例外なく「神の前に悪を行った」と書かれていますが、中でもオムリは彼以前のどの王よりも悪事を行ったとされています。このオムリという人物は、あまりクリスチャンには知られていませんが、割と重要な人物です。歴史的には、聖書以外の証拠から、実はオムリが王だった時代にイスラエルは全盛期を迎え、本当の「王国」と呼ぶにふさわしい規模になった、と考える説があります。オムリは北イスラエルの首都をサマリヤに移した王としても重要ですし、イスラエルの偉大な預言者として覚えられているエリヤの時代に収めたアハブ王の父親です。

国境を越える預言者たち

アハブの時代にエリヤという名の預言者が登場します。この「預言者」という肩書は、既に王のそばに仕えて助言をするという約束として存在していました。しかしエリヤ、そしてエリヤの後を継ぐはエリシャは、特定の王に仕えてはおらず、神の言葉を聞いた時に王の前に現れ、王の立場に一切忖度せずに神からの言葉を告げました。エリヤはその結果アハブ王と彼の妻イゼベルに嫌われ、幾度となく命を狙われました。また、エリヤとエリシャにとっては国境も関係ありませんでした。これは、この「神の招き」シリーズではは大きな意味を持ちます。

今までも触れてきましたが(ルツ記など)、イスラエルは自分たちこそが神に選べらた民であり、神の祝福は全部自分たちで独り占めできるものだ、ぐらいに考えていました。逆に他の国々は敵であり、汚れていて、神の前から追い出され、滅ぼされるのに相応しいと考えていました。しかし、聖書の中にはそのような考えに逆行する神の御心が啓示されています。そのような話をいくつか取り上げたいと思います。まずは、エリヤの奇跡の話です。

I列王記17:8-24

すると、彼に次のような主のことばがあった。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、あそこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。
彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。
そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」
その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」

このような奇跡的な出来事が起こりますが、神はエリヤをわざわざ異邦人の地に遣わしてこの奇跡を起こさせます。その間イスラエルは干ばつと飢饉で苦しんでいるにも関わらず。

後にエリヤは天に引き上げられて、弟子であったエリシャが後を継いで王たちに対して預言をしますが、彼もイスラエル人以外に癒しを与えることになります。その話を見ましょう。

II列王記5:1-14

アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」
イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せという。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりにヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

凄い話です!冒頭を読むだけで、このシリア(アラム)の将軍ナアマンは、イスラエルに攻め込んでそこの民を捕虜として連れ帰っていたことが分かります。イスラエルからしたら敵です。そして敵国に奴隷として連れて行かれた少女が、主人の病が癒されるために、母国にいる預言者の存在を教えるのです。

逆にイスラエルの立場で考えれば、こんな厚顔無恥な話があるでしょうか?自分たちの領土を侵し、民を奪った憎き敵国の将軍の病を預言者を通して癒せ?そんなことできる筈がありません。敵の優秀な将軍が病でそのまま死ねば、あるいは指揮が取れないほど病めば、イスラエルにとってはラッキーです。その人の癒しを願うはずもなく、ましてや自分の国の預言者を使って超自然的な癒しをプレゼントするなんて言語道断です。「敵に塩を送る」の何レベルも上のあり得ない話だと思いませんか?

確かにイスラエルの王は難色を示します。しかしエリシャは喜んでナアマンを癒すことを申し出、王もそれを止めることができません。

「選び」とは?

神の祝福はイスラエルのためだけではない、イスラエルが繁栄して敵が皆滅ぶことが神の願いではない、という思想がここに現れています。神の御心は、イスラエルを「祭司」的な国にすることです。神がイスラエルを祝福するのは、イスラエルが神の祝福を全世界に届けるためです。生贄を求めたり怒り狂って罰を下すような神々に縛られている異邦人に祝福と解放を届けるためです。

本来のアブラハムの召命がそうです。創世記12章では、アブラハムに対して神は「すべての国々があなたを通して祝福される」と言われます。しかし多くのイスラエルの人たちはこれを見逃していました。敵は滅ぼすべきだ、自分たちは聖くて神に選ばれているが、奴らは神に呪われた汚れた人たちだ、という考え方が蔓延していました。ちょうど改革派、カルヴァン派の二重予定説のようです。ある人たちは予め神に救いのために選ばれ、他の人たちは予め滅びのために造られたという考えがありますが、聖書の神からこれ以上離れようがない程離れた神理解です。自分たちがなぜ救われたか、どのようにして救われたという確信を持てるか?と言う問いに対して「神に選ばれているから」という考えは聖書的と言えるでしょう。しかしそれを二元化して「救われない人たちは、それも神が最初から地獄で永遠に滅ぼすことを選んだから」「つまり神は最初から全人類を二つに分けられた、祝福された選びの民と呪われた滅びの民」とするのは、イエスが教えたこととも全く違いますし、聖書が啓示している神をあらわしているとも到底言えません。

イエスはそのような考え方にNOを突き付けました。「選び」というのは、他の人たちが滅びる中で特別に救われるための選びではありません。神の祝福を他の多くの人たちに届けるためです。イエスは、ルカの福音書が記録している最初の説教で、そのことエリヤとエリシャにも触れながら話しました。

ルカ4:14-29

イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。
イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」
また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。

なずイエスが嫌われたか分かりますよね?神の祝福はイスラエルだけに及ぶのではなく、イスラエルの敵国にも及ぶ、ということを言われたからです。イエスはここでイザヤ61章を引用しますが、最後の「復讐」の部分だけは省きます。つまり、「捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」の部分には、当時のユダヤ人たちが嫌っていたギリシャ人やローマ人も含まれるとイエスは言いたかったのです。それを主張するためにエリヤとエリシャの話を持ち出しましたが、あまりにも群衆を怒らせてしまいました。イエスの時代も、そのような排外的な考えが非常に根強かった時代でした。

このシリーズでは、上記のルカ4章と共にすでに取り上げているイエスの癒しの話ですが、マタイ8章のローマの百人隊長のしもべも話も取り上げたいと思います。

マタイ8:5-13

イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

これも以前言ったことがありますが、イエスは単に百人隊長の信仰を褒めただけでなく、わざわざ「たくさんの人が東からも西からも来る、でも御国の子らは放り出されて泣いて歯ぎしりする」と言って、神の国に招かれるということは異邦人・イスラエル人関係ない、イスラエル人でもその招きに気付かなければ外に締め出される、というメッセージを語るのです。イエスが神殿で暴れた「宮浄め」事件も、結局はナショナリズム・国粋主義に反対する意図があった可能性が高い、ということも既に触れてきました。そのように語り続けて敵を作ったから十字架にかけられたのでしょう。

また、イエスによってもたらされキリスト教に根付いた新しい思想は、「イスラエルだけでなく、異邦人であっても、神に従う者は『選びの民』に参与できる」というものです。だからパウロはアブラハムの子孫が肉的な子孫ではなく霊的な子孫であることを書簡の中で論じているのです。イエス・キリストの生き様に心を打たれ、この方にこそ従いたいと志す人たちは、みんな「選ばれたもの」となることができるのです。ただし、それは「死んだ後に天国行が保証されている」という選びではなく「神の祝福を他の人々に届ける」「神の国を広げて全世界を包み込む」ための召命としての選びなのです。

召命としての「選び」

新約聖書でも「選び」の話がよく出て来て、それが二重予定説の根拠に使われたりもしますが、それらはイスラエルが「選びの民」と言われていた背景があるのです。アブラハムの選びは、間違いなく多民族への祝福となるための選びでした。イエスや使徒たちが語る選びも、どこかの遠い昔に神が人間には到底知り得ないご自身の意志によって「救いの民」と「滅びの民」を選別された。とかそういうことでは全くありません。そのような神秘的なことよりも、「何のために選ばれたか」を聖書は繰り返し強調しています。最後にイエスの言葉と、使徒書簡の言葉を一つずつ読みたいと思います。

ヨハネ15:16-21

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。

選ばれたのは、「行って実を結ぶため」です!同じようにイエスが説いた価値観で考える人たち、それを生きる人たちを増殖させることで。この世界は基本的に誰しもが「自分たちが特別だ、他の人たちは除外しよう」という考えを好みます。民族、肌の色、国籍、文化、性的指向、宗教など、そのような属性によって人を排除することに抗議すると、この世界では嫌われてしまうことが多々あります。なんと教会内でも嫌われます!ほとんどの教会も、結局は「この世」でしかないからです。

パウロが一生懸命ブチ切れながらガラテヤ人に伝えようとしたのも、同じことです。ユダヤ人だから、割礼を受けているから救われるのではない!という訴えです。そこから「信仰義認」という考えが生まれてプロテスタント信仰の核となっていますが、それはキリストがその忠実さによって示して下さった神の国のあり方を心から信じ、それに賭ける生き方のことです。死後の天国の保証とは何の関係もありません。「義認」とは、神に正しいと認められること、そして「選ばれし民」つまり「イスラエル」に参与することです。「そのためにキリストが十字架に架かったのに、何でお前たちは分からないのだ!」とパウロは嘆きながら信徒たちに手紙を書いているわけです。

最後にペテロ書から、これも以前本シリーズで取り上げてことのある箇所で締めます。

1ペテロ2:9-10

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、きよい国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

私たちが招かれた光の中、素晴らしいみわざの中、神の民として恵みと憐れみの中に、それをまだ知らない人たちを招くという証明が私たちに与えられているのです。イエスの弟子として、その召命を歩んでいきたいものです!

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