神の招き10「ダビデの闇」

9月10日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/639861807

王国の誕生

今月から「王国の誕生」という新しい章に入っていきます。先月はイスラエルの士師時代を見ました。「放浪から王政へ」、荒野での放浪時代が終わってカナンの地で12部族がそれぞれの土地を構えてからの時代です。その時「王はいなかった」というフレーズが士師記に何度も出て来きます。そして今日から「王政時代」を見ていきます。士師時代は王がいないから色々な問題が起きた、人は好き勝手した、みたいに書かれている箇所がいくつかありますが、では王がいたらそれがマシになるのでしょうか?先取りして言うと、全くなりません!

今日はサムエル記から読んでいきます。Iサムエル記の冒頭ではエルカナという人物が登場します。二人の妻が居て、片方は子供ができますがもう片方はハンナという名の女性で、不妊でした。ハンナは必死に主に祈った結果子供を授かり、サムエルと名付けて、神殿に仕えさせました。

その時、神殿にはエリという大祭司がいましたが、彼の息子二人は酷い人たちでした。イスラエルはペリシテ人に攻められて敗れ、主の箱を奪われるなど散々な状態でした。そんな中で育ったサムエルはやがてイスラエルの士師として治めるようになり、サムエルの下でペリシテ人を打ち負かしました(7章)。その後に、イスラエルは他の国々と同様「私たちにも王を建ててくれ」と言い出したのです。その箇所をまず読みます。

Iサム8:1-22

サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。

主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」

そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王のゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」

それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」

サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい」と言った。

(太字部分を是非覚えておいてください。後でまた触れます。)

この後、サウルという青年が王として選ばれます。サウルはアモン人やアマレク人との戦いに勝ち続けますが、途中で神の命令に背いたがゆえに、神はサウルを王として退けた。まだ王として君臨し続けますが、サウルは息子のヨナタンに王位を継承できず、代わりにダビデという少年が次の王としてサムエルに油注がれます。ダビデはサウル王に仕え、巨人のゴリアテを討つなど大活躍しますが、サウルに妬まれて命を狙われてしまいます。

その道中、サウルを殺すチャンスがあったのにダビデはサウルを殺さず、それに心を打たれてサウルはダビデの命を狙うのをやめます。その後戦争でサウルとヨナタンが戦死し、ダビデが王となってエブス人の町であったエルサレムを占拠し、全イスラエルの王となります。

ダビデとバテシェバ

しかし、ダビデには裏の顔があったのです。その話に今日は触れます。ダビデとバテシェバの話です。

IIサムエル記11章

年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。

ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。—その女は月のものの汚れをきよめていた—それから女は自分の家へ帰った。女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。ウリヤが彼のところに入って来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。

ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」

ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。その手紙にはこう書かれてあった、「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」

こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」

ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。

完全な確信犯です。バテシェバという美しい女性に見とれ、彼女と関係を持ちます。しかし妊娠してしまい、それを隠すために戦場に出ているバテシェバの夫のウリヤを呼び戻します。当然妊娠のアリバイ作りです。しかしウリヤは仲間が戦場で戦っているのに自分だけ家に帰って妻と寝ることはできない、と頑なに拒みます。そこでダビデはウリヤを戦場に戻し、最前線に配置して彼が戦死するように仕向け、それが成功します。それからバテシェバを「合法的」に自分の妻として迎えます。さてこれからどうなるのでしょうか?

12章

主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。」富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何ももっていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」

ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。

それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前で悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。今は剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。』」

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

僕は、この箇所が聖書を他の古代の書物とはっきり差別化できるところだと考えています。それは、当時の最高権力者であり、イスラエルの歴史の中でも最も敬愛されているダビデ王を完全に悪者として晒しているからです。王が好きな女性を奪って結婚することなど多々ありました。

「ウリヤというヘテ人がいたが、バテシェバという名の美しい妻がいた。ウリヤはアモン人との戦いで戦死し、バテシェバは酷く悲しんだ。するとダビデ王は彼女を自分の妻として迎え入れた。」

こういったストーリーでも全く違和感はないでしょう。ダビデの名誉も保てます。しかし、聖書はそうしないんです。ダビデの罪を晒します。そして、本来ヨシュアの時代に滅ぼされるべきカナン人の一部族のヘテ人だったウリヤが、無実でしかもとても忠実な家来だったのにダビデの私利私欲のために抹殺された、ということを公然と晒しているのです。これが、聖書が我々の「人間社会ではこうやって権力の横暴によってスケープゴートにされる人がいますよ!」と教えてくれるところなのです。これが、神からの「啓示」です。

ダビデの前科?

しかし、聖書の全てにこのような啓示がある訳ではありません。そして、実はダビデには前科があります。その話をこれから読みます。Iサムエル記25章2節からです。

マオンにひとりの人がいた。彼はカルメンで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメンで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。この人の名はナバルといい、彼の妻の名前はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。

ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、わが同胞に、こうあいさつしなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」

それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。

そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。「ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」

そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。彼女がろばに乗って山陰を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。ダビデは、こう言ったばかりであった。「私が荒野で、あの男が持っていた物をみな守ってやったので、その持ち物は何一つなくならなかったが、それは全くむだだった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」

アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。どうか、あなたの敵、ご主人さまに対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。どうぞ、この女奴隷が、ご主人さまに持ってまいりましたこの贈り物を、ご主人さまにつき従う若者たちにお与えください。どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまづきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」

ダビデはアビガイルに言った。「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。私をとどめて、あなたに害を加えさせられなかったイスラエルの神、主は生きておられる。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに、明け方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう。」

ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」

アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは自分の家で、王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上きげんで、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。

十日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった主が、ほめたたえられますように。主はナバルの悪をその頭上に返された。」その後、ダビデは人をやって、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。

ダビデのしもべたちがカルメルのアビガイルのところに行ったとき、次のように話した。「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました。」彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「まあ。このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女をあとに従え、ダビデの使いたちのあとに従って行った。こうして彼女はダビデの妻となった。ダビデはイズレエルの出のアヒノアムをめとっていたので、ふたりともダビデの妻となった。サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリムの出のライシュの子パルティに与えていた。

この箇所を読んでどう思うでしょう?そのまま額面通りに受け取りますか?なぜナバルは死なないといけなかったのでしょうか?彼は確かにけち臭かったかもしれません。しかし自分の持ち物を与えるのを拒んだだけで、ダビデは彼に対して相当な殺意を抱きます。

また、バテシェバの話同様、アビガイルが非常に美しかったことが冒頭に書かれています。そこで、ナバルを何らかの方法で死なせ、アビガイルを妻として迎えたことは十分考えられるのではないでしょうか?急に「主が彼を打たれた」は都合よすぎます。

バテシェバの話では、王の罪が暴かれました。しかしナバルの話では、王の罪を覆い隠す書き方がされてしまいました。これは「神話」の書き方です。聖書はこのように「神話」(或いは「宗教」)の部分と、そこに居て苦しむスケープゴートの実態を暴く「啓示」の部分が混在しているのです。それを読み分けていくことが重要なのです。

「ダビデの子」?

こうやってダビデの闇の部分をピックアップしてきましたが、「ダビデの子」と度々呼ばれたイエスは、そのことについてどう考えていたのでしょうか?マタイの福音書から読みたいと思います。

マタイ22-23

パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。

ここを素直に読めば、血統には関係なく、少なくともその役割やアイデンティティにおいて、自身が「ダビデの子」であることは明確に否定しています。さらにこの後、パリサイ人や律法学者たちを厳しく糾弾した箇所を見たいと思います。

マタイ23:1-14

そのとき、イエスは群集と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂での上座が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。〕

最初の太線部は、サムエルがイスラエル人に王を求められた時に言った言葉を思い出させませんか?その後の「父、師と呼んではならない」の部分も、主のみが王なのでイスラエルに王は必要ないと言っていたサムエルと同じレトリックかもしれません。そして14節の「やもめの家を食い潰し」は、二人の男性を死なせてそれぞれの妻をやもめとし、自分のものとして奪った行為と被りませんか?勿論、このことは想像の域を出ませんが、イエスがダビデおよび王的な権力に批判的であった可能性は十分に考えられます。

聖書を批判的に読む意味

聖書を批判的に読み、著者によって隠された被害者、隠されたスケープゴート行為があるかもしれない、と考えるのは、本当は聖書でやりたいのではありません。聖書は、「神話」と「啓示」の部分が混在していることで、それに対する気付きを与えてくれます。しかし、本当はそれを我々の身の回りで活用したいのです。日頃から目にするニュースや、本などで読む自分の国や他国の歴史、またもっと身近な会社の出来事や自分の家族の中での会話にも、もしかしたら「神話」があるかもしれません。

誰かの立場を守るために話が変えられ、そこに犠牲にされる被害者の声が埋もれていることがあるのです。でも、聖書を批判的に読むことで、読んだり聞いたりする話にも「本当にこれは真実なのか?」「このナラティブで覆い隠されている犠牲者はいないのか?」という視点を養って周りを見ることができるのです。

このシリーズを進めている理由もそこです。その視点をもって世界の事情や社会問題に向き合い、そこから社会を変えるような小さな行動がたくさん生まれれば素晴らしいと思います。

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