「精神障害とキリスト教」(1)by ぼやき牧師

 私は双極性障害という病気を患っています。俗に言う「躁鬱病(そううつびょう)」です。躁鬱病というのは、一言で言えば、精神状態がジェットコースターのようにアップダウンする心の病気です。

 躁状態の時は、自分が天才ではないかと思えるほどに有頂天になり、体力が燃え尽きても何事も全力で取り組んで疲れ切ってしまいます。またこの状態の時には、非常にイライラした気分にも襲われます。何しろ自分は天才で王様ですから、他の人が馬鹿で愚かで惨めな人に見えてしまい、つい傲慢な態度でキレてしまったりすることもあります。

 反対に、鬱状態の時には、自分ほど駄目な人間はいないという気分に包まれ、存在していること自体が辛くて仕方なくなります。自分のような人間は今すぐにでも死んでしまった方が良いのだ、いますぐ消えてしまいたいという思いで心がいっぱいになります。実際、ある調査によれば、自死率が最も高い心の病が躁鬱病なのだそうです。

 この躁と鬱の入れ替わりのサイクルには個人差があり、2週間から1ヶ月程度でひと回りする場合が多いようです。しかし、私の場合は「気分変調性」の双極性障害、または「ラピッド・サイクラー」と言い、通常でも3、4日程度で入れ替わり、ひどい時には1日ごとに症状が逆転してしまうこともあります。つまり、今日は元気でも明日も元気であるとは限らない。今日が鬱でも、明日はけろっと元気すぎる自分になっているということもあります。まさに「天国と地獄」を日々行ったり来たりしているような病気なのです。

 この病気の、特に鬱期に入っている時の苦しさは、筆舌に尽くしがたいです。自死を実行する気力さえもなく、「どうかこの人生を早く終わらせてください」と神に祈るしかないような状況です。なぜ自分が生きなければならないのか。こんな命に生きる価値があるのだろうかという問いに起きている間ずっと苛まれるのです。もちろん薬が無ければ眠れません。

 キリスト教は「神が一人一人を愛している」と説きます。しかし、私のような病を抱えた人間は(特に鬱期には)、この信仰が揺らぐ時があります。なぜ私はこのような辛い思いをしながら生きなければならないのか」という疑念に取り憑かれてしまいます。たとえそれが人生の半分であったとしても、その半分を救うためにはどうしたら良いのか。どう信じたら良いのか。それが精神障害者でキリスト者の課題です。

 今後、イクトゥス・ラボでも、精神障害とキリスト教の関わりについて、細々と投稿してゆこうと思っていますが、今回はツイッター友達のcloverさんが一文を寄せてくださっているので、そちらをご紹介したいと思います。

「精神障害とキリスト教」by clover

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