6月25日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/624472777
今までの振り返り
ここ3回の学びでは創世記に焦点を当てていますが、初回は人間の堕落によって暴力のサイクルが制御不能の状態になったのに対し、イエスが示した非暴力の生き方について学びました。前回は、ヤコブとエサウを中心てとした兄弟同士の争いに注目し、新約聖書が示す新しい兄弟のあり方についても読みました。
放蕩息子
今回は、「感動の再会」というテーマですが、まずは有名な話から見ていきたいと思います。ルカ15:11-32の「放蕩息子」の譬え話です。
「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
伝統的に教会でよく語られる解釈では、弟は罪人である我々が神から離れて好き勝手に生きている様を表し、でも我々が悔い改めて神様の所に帰れば神様は喜んで受け入れて下さる、というふうに語られます。この従来の解釈については、大いに肯定すべきポイントと、少し物足りないと思いポイントがあります。
肯定すべきポイントは、当然神の大きな大きな愛です。お父さんはずっと息子の帰りを待っていて、走り寄って抱擁し、息子がしもべにしてもらうようにと準備していたスピーチを最後までさせず、宴会の準備をさせます。それだけ神様は寛大に私たちを受け入れてくれる方です。
しかしこの物語を我々の個人の救いの話にしてしまうのはあまりにも現代の個人主義の価値観に当てはめすぎだと思います。大枠のイエスの物語の文脈で考えると、イエスは常に取税人や娼婦など、「罪人」と呼ばれていた人たちと共に過ごしていたのを、パリサイ派や律法学者たちは白い目で見ていました。また、ルカ4章のナザレでの説教にもあるように、神の国、神の恵みと祝福は敬虔なユダヤ人だけでなく、彼らが軽蔑している「罪人」の異邦人にも及ぶ、というメッセージもここに含まれていると思います。
弟の帰りを喜べない兄は、弟に対して「遊女におぼれて」と決めつけますし、「あなたの身代を食い潰し」も、財産は既に弟のものでしたからどう使おうが自由です。飢饉が起きたのは弟のせいではないですし、弟は無鉄砲で愚かだったかもしれませんが、彼を「罪人」として読むのは、兄の目線で我々も読んでいるからかもしれません。
でもこの話では、父は怒っている兄にも向き合います。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」パリサイ派は、神がユダヤ人を、イスラエルの地を憐れんでくれるようにと神の律法を出来る限り守ろうとした人たちで、決して悪者ではなかったのです。でも自分たちのように律法を守れない人も神の祝宴に加わるのが気にらなければ、自分のチョイスで自分を除外することになります。そんな人たちに対しても、イエスは神の国の祝宴に加わるように必死で諭しているのが、この譬え話の最後に現れているのだと思います。
考え方の違う兄と弟が争い合うのではなく、共に神の下で祝福を受けるのがイエスのビジョンです。
ヤコブの息子たち
では、創世記に戻りましょう。創世記37章から50章まで、ヤコブが溺愛していたヨセフが兄たちに嫌われ、エジプトへ売り飛ばされ、そこで様々な紆余曲折のあるストーリーが展開されていきます。ここでは大まかなあらずじを載せます。
父ヤコブから特別の長服を与えられるなど、兄たちよりも一層父の寵愛を受けていたヨセフ。彼は時々夢を見ますが、その夢では自分の兄や親が自分向かってひれ伏していて、そのことを彼は自慢げに家族に話し、余計に兄たちの反感を買います。
ある日、羊の世話をしている兄たちのもとにヨセフが行くと、兄たちはヨセフを殺そうと企みます。しかし長兄のルベンは殺すことには反対し、彼を穴の中に入れ、隙を見て父のところに返そうと考えていました。ところが、ルベンが目を離した際に、イシュマエル人の証人が通りかかり、今度は四番目のユダが「殺しても何にもならないから売ってしまおう」と持ち掛けます。
ヨセフを買った商人たちは彼をエジプトに連れて行き、奴隷として彼を売ります。一方で兄たちは、山羊を殺してヨセフから奪った長服を山羊の血で浸し、それを父親に見せてヨセフが死んだと思わせます。
その後ヨセフはポティファルという裕福な王様の家来に売られます。彼は仕事が非常によく出来たので、家の管理を一式任されるようになりますが、若くて格好いい彼に目を付けたポティファルの妻が彼を執拗に誘います。ヨセフは断り続けまずが、ついに妻は「ヨセフに襲われた」と夫に告げ口をし、ヨセフの牢獄に投げ入れられます。
牢獄でもヨセフは才能を発揮し、すべての囚人の管理を任せられます。ある日、王様のパロに仕えていた二人が牢獄に入れられていて、彼らは共に夢を見ます。ヨセフはその意味を解き明かし、ヨセフの解き明かし通り、一人は赦されてパロに再び仕え、もう一人は処刑されます。赦された人にヨセフは自分を覚えてくれるように頼みましたが、残念ながら忘れられてしまいます。
その後、パロが夢を見ますが、誰も解き明かせず、以前牢獄に入れられていた家来がヨセフを思い出し、パロはヨセフを連れて来るように命じます。ヨセフはパロの夢の意味を見事に言い当てます。それは7年間の大豊作の後に7年間の大飢饉が起こるというもので、そのために優秀な人を任命して最初の7年にしっかりと穀物を蓄えるようヨセフはパロに進言します。パロはその役にヨセフをその場で任じ、囚人から一躍エジプト全土を収めるようになります。
さて、豊作の後の飢饉はエジプトの周辺地域にも及び、カナンに住んでいたヤコブの家族も食糧が底をつきそうになります。エジプトには食糧があると聞いたので、ヤコブは末っ子のベニヤミン以外の息子10人をエジプトに送り、食料を買わせます。ヨセフはカナンから食糧を買いに来た兄たちに気付き、彼らを厳しく尋問し、父の事や末の弟のことを話させます。兄たちはすっかりエジプトのリーダーになったヨセフには全く気付きません。
ヨセフは家族の必要な分の食糧を与えますが、次兄のシメオンを人質にとり、ベニヤミンをエジプトまで連れてくるように命じます。残りの兄弟たちはカナンに戻って父にそのことを報告しますが、父は既にヨセフを失い、シメオンも人質に取られた今、ベニヤミンをエジプトに生かすことは許しません。しかし時期にまた食糧が減っていき、兄たちが再びエジプトに食糧を買いに行くのにベニヤミンも行かせます。
兄たちが再度エジプトへ来たのを見たヨセフは、シメオンを解放し、全員を宴会でもてなします。そして家来たちに彼らの袋に必要な分の食糧を入れさせますが、ベニヤミンの袋には自分の盃を入れさせます。彼らがカナンへ戻る途中、ヨセフを家来をやって、誰かがヨセフの盃を盗んだという疑惑で調査します。その盃はベニヤミンの袋から発見され、彼らは皆エジプトへ引き返します。盃を盗んだ容疑でヨセフはベニヤミンを奴隷にすると言いますが、兄たちは次々に庇い、ユダは父親の思いを語ってヨセフにベニヤミンを奴隷にとらないようにと懇願します。
ついにヨセフは自分を抑えられなくなり、大声で泣いたのち、自身の正体を明かします。
ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語りあった。(創45:3-5、14-15)
完全な和解がここで起きます!ヨセフは家族全員を招き、エジプトに住まわせます。父ヤコブもエジプトに来てヨセフと再開します。ヤコブはその後エジプトで亡くなりますが、父の死後に兄弟たちはヨセフの復讐を恐れてヨセフに父の名を借りて再度赦しを乞います。しかしヨセフはあくまでもこれはすべて神の計画だと言い、彼らを咎めません。
ヨセフは彼に言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。(50:19-21)
創世記は、ヨセフによる赦しで終わるんです!アダムとエバが神に背いた後、人間の暴力の歴史が始まり、カインがアベルを殺します。アベルの血は復讐を叫びます。数世代後のラメクの時代には「77倍の復讐をする」までに暴力が激化してしまいました。しかし創世記はそれで終わりません。復讐ではなく、和解と赦しで終わります。
これは聖書全体の方向性、神の人間に対する「招き」の方向性と同じではないでしょうか。ヘブル12:24「アベルの血より優れたキリストの注ぎかけの血」という表現があるように、復讐ではなく、赦しと和解こそが真の人間のあり方だと聖書は教えています。
神の国を知らず、この世の通常の「第二ステージ」の宗教的・供犠的な生き方に染まっていながら、神に奇跡的に出会った経験によってその道から立ち返り、赦しの和解の福音を説いた人物がいます。最後にその人について触れたいと思います。
パウロ(サウロ)の回心
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。
私は、パウロを理解するには、パウロの神学的考えのすべてがこの回心の経験に由来していることを常に念頭に置くべきだと考えています。ここでのサウロの問題は何でしょうか?それは暴力であり、殺人です。「自分は生まれながらの罪人でイエスの贖罪によって救われる必要がある」や「イエスを個人的な主、救い主としてイエスを受け入れる必要がある」ではないのです。サウロの回心のストーリーは、現代の組織神学に基づく「救い」の体験とは何の関係もないのです。「なぜ私を迫害するのか」とイエスは言いました。サウロは律法を誰よりも知っていましたが、その解釈に問題があったのです。人を殺すため、暴力的に排除するために律法を用いていて、それが神の御心だと思っていました。
目が見えずにダマスコのとある家に引かれていったサウロのもとに、サウロが猛烈に敵視していたクリスチャンのアナニアという人が来ます。パウロは何が起こると思ったでしょうか?自分は彼らを憎み、迫害し、死にまで至らしめていました。惨めで無力な姿になった自分は、ここで逆に彼らに殺されると思ったかもしれません。しかしアナニアはそうしまぜんでした。「兄弟サウロ!」と彼は言いました。そう、まだ何の公の悔い改めもしていないサウロを「兄弟」と呼んだのです。
ここからパウロは変わっていきます。彼が書いた箇所でおそらく最も読まれ、愛されている箇所を最後に取り上げます。Iコリント13章は「愛の章」として知られていますが、12章から続いています。12章では様々な「聖霊の賜物」について書かれていて、聖霊の賜物を重視する教派ではこの箇所を中心にセミナーやカンファレンスまで開いたりします。しかし私は12章は13章の引き立てにすぎないと思っています。12章では賜物云々よりも、教会の一致が強調されていますし、最後に「さらにまさる道を示す」(12:31)と彼は言っています。
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 (13:1-3)
12章であげた賜物に対して「愛が無ければ無意味」と言っています。コリントの教会では、人のそれぞれ違った賜物を巡って対立があったり、マウントの取り合いがあったのかもしれません。しかし最も肝心なのは愛だと言っています。パウロ自身、アナニアを通して自分が迫害したクリスチャンたちからの圧倒的な愛と赦しを経験していました。アナニアはサウロのために祈る際に「聖霊に満たされるために」と言っています。パウロにとって「聖霊に満たされる」ということは、賜物の比べ合いではなく、この世界の平常運転ではあり得ないような圧倒的な愛と赦しなのです。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(13:4-8)
「愛」の部分を、パウロの経験に基づいて「アナニアとダマスコのクリスチャンたち」と言い換えられるかもしれません。Iヨハネ4:19に「神が先に私たちを愛して下さったから私たちも人を愛せる」とあるように、パウロも自分がそのような愛を経験したからこれが書けるのです。
この後も、預言や異言を止む、廃れると言い、最後に残るのは信仰と希望と愛、そして最も優れているのは愛だと言います。
このことから分かるのは、初期のクリスチャンたちは赦す人たちだったということです!パウロは彼らの赦しによって人生が変えられ、キリストを宣べ伝えるものとなりました。「赦し」こそが福音の鍵です。しかも無償の赦しです。赦しを実行できるために代理で誰かを罰したり、怒りをなだめたりするのではありません。同然これはイエスの十字架の死に関する贖罪理解にも影響します。
我々が互いに赦し合うことが、神に倣うものだとしたら、神の赦しは決して誰かに代理で刑罰を与えることで可能になるようなもののはずがありません。イエスの死は人間の罪深さ、 宗教的・供犠的暴力の問題の深刻さ示しましたが、その中でも赦しを和解を提供する神の愛によって、我々が自分たちの過ちに気付き、神に倣って互いに赦し合う者へと変えられていくのです。パウロの回心も同じです。アナニアやダマスコのクリスチャンたちの圧倒的な愛と赦しに面食らったパウロは、以前の暴力的な生き方から悔い改めてキリストに従うものとなりました。
創世記から律法へ
創世記に焦点を当てた学びはここで終了となります。次週は普段よりはリラックスした振り返りを予定しています。その次からは「律法」が果たす役割について学びます。律法も、我々人間の闇の部分、供犠的・暴力的な側面を示しつつ、そこから「第三ステージ」の神の国の生き方へと導くものでもあるのです。
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