神の招き(創世記振り返り)

7月2日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/625916318

6月のフォーカスは創世記でしたが、今回のツイキャスでは質問を募りながらその振り返りをしました。

これまで読んできた聖書箇所や触れてきた概念やキーワードなどをここで整理してみましょう。まず。このシリーズでは、「人間論」という視点から聖書を読んでいます。つまり「人間とは何か」「人間が抱えている問題とは何か」「人間はどのように生きていくべきか」など、人間視点での質問をすることで、今まで教会で教えられてきた「信仰」「救い」「罪」などの聖書的な概念が新たに理解できるようになります。

このシリーズでの主張

このシリーズの土台となっている考えがいくつかあります。

人間は模倣的な生き物
人間は自分で考えて自分で決めて自分の意志で行動している、と思い込みがちですが、このシリーズでは、人間は他人を「模倣」しながら考え、判断し、行動しているという人間論を打ち出しています。しかもその模倣は無自覚に行われます。

模倣的欲望によって人間社会は暴力へと堕落した
人間が互いの欲望・願望を模倣することでライバルとなり、その争いが激化することで人間社会全体が暴力的になっていきます。

人間は暴力の問題を解決するために供犠を行ってきた
暴力を抑えられなければ人間社会は滅びてしまいます。それを抑える方法として、暴力的衝動を一人の「スケープゴート」(代理的犠牲者)に向けます。その犠牲者は、人間の共同体を危機に陥れた「罪」を被って殺害或いは追放されます。それによって共同体は一時的に平和を取り戻します。

禁忌・儀式・神話=宗教によって人類の文化・文明は維持されてきた
模倣を抑えるために、模倣となる対象物(特に食べ物や性関係)に制限を設けること(禁忌)で、模倣を緩和しようとします。また、模倣によって広がった暴力を鎮め、共同体の一体感を保つために、供犠を中心とした様々な儀式が行われるようになります。さらに、共同体の平和を取り戻すために行った供犠は、色々な着色がされて「神話」として語り継がれます。

聖書はこのような生き方から人間を救い出す道を示している
聖書は人間のこの状況を古代のどの書物よりも理解し、そのままでは結局人類も滅んでいくだけだという警告と共に、そこから抜け出して新しい人間社会の築き方へと導いてくれている。

これが、このシリーズで語っている「聖書の人間論」です。これがまさに聖書の至るところで語られているというのがこのシリーズで一貫して主張していることです。創世記では、アダムとエバのエデンの園での叛逆から、すぐにカインのアベル殺害が起こり、レメク、そしてノアの時代には抑制が効かないほどに暴力が拡大していたことを見ました。

またカインとアベルだけでなく、ヤコブとエサウ、ヨセフとその兄弟たちのように、模倣的欲望から発展する兄弟間の争いも見てきました。そしてイエスは福音書の中で、そのような模倣的な争いや暴力から離れる道を教え、またご自身そのような生き方を体現し、人々を自分についてくるように招きます。それこそが神の国であり、救いであり、永遠のいのちなのです。

ただ、それは新約聖書で急に現れたものではなく、旧約聖書からずっと神が我々人間をその道へと招き続けているのです。創世記も、様々な暴力的なシーンや兄弟間の争いを描きますが、最後はヨセフが兄弟たちに完全な赦しと和解を与える話で終わります。

ヨハネの福音書の冒頭

最後に、今回のツイキャスでは、「ヨハネの福音書」の冒頭部分を読みました。ここには、神が人となり、今までの世界とは全く違った世界のあり方を提示していることが美しく詩的に描かれています。

1-4初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(これを理解しなかった)。

「ことば」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「ロゴス」です。紀元前6世紀にギリシャ人哲学者のヘラクレイトスが「ロゴス」という言葉は「世界の構造的原理」という意味で使いました。彼はその原理は争い・暴力であると考えていました。ここのヨハネ福音書の冒頭は、これに真っ向から反する「構造的原理」を打ち出しています。死をもたらす暴力手はなく、命を与える光です。それがイエス・キリストという人となって我々に現れてくれたのです。しかし、暴力的な原理でできている世界(闇)は、このイエスを理解できないのです。

9-14すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

世界はもともとこの構造的原理で作られたはずなのに、世界は全く違ったものになってしまいました。そして、そのロゴスは人となってその民に現れたのに、その民は自分たちの暴力的な生き方にしがみつきました。しかし、中にはその新たな生き方を受け入れ「神の子ども」として輝きを放ち、真のロゴスが与える新しい人間の生き方を広めていく人々も起こされたのです。

16-18私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

ここで、次のフォーカスである「律法」が出てきます。ヨハネは、モーセとイエスをここで対比させています。律法だけでは得られない新たなものをイエスは与えに来たということです。そして最後には、イエス以外に真の神を見ることはできないという大胆な主張がなされています。モーセもイザヤも神を見たかもしれない、でも真の神を余すところなく解き明かしたのは、イエスだけだ、イエスこそが神の本当の姿だ、というのがヨハネだけでなく、新約聖書に見られる使徒教会の主張です。

そして、それがこのツイキャスシリーズでも主張していることです。イエスこそが道であり、真理であり、命なのです。しかし、イエスとなって我々に現れて下さった神は、旧約聖書の時代にも、そして今の時代にも、絶えず我々を暴力的な社会の築き方から、赦しと和解と愛による生き方へと招いて下さっているのです。

その招きについて、これからも共に学んでいけたら幸いです。

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