神の招き⑥『聖書の二つの声』

7月23日ツイキャス  https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/630159251

これまでの主張

今月はずっと「律法」をテーマに学んできましたが、これで最後になります。

このシリーズで一貫して言っていることは、神は人間を救ってくださる、そして聖書から神が人間を救いの道に導いて下さることを読み取ることは可能だということです。聖書の言葉そのものからそれを読み取ることができますし、聖書の記述の背景や文脈をより明らかにする聖書学を通しても、その「神の招き」をより強く読み取ることが可能です。

勿論、我々が教会からずっと教えられてきた聖書の読み方、特に「救い」に関する考え方からは切り替える必要があります。聖書が語る人類の救いとは、この世界に住む人々が新しく生きる世界へと導いてくださるものですが、では我々は何から救われるのでしょうか?

このシリーズでこれまでに述べてきた三つのキーワードを挙げます。

第一に、暴力です。我々は暴力から救われなければなりません。これは聖書がずっと語っていることです。アダムとエバのエデンの園での違反行為から、子供達のカインとアベルがすぐに争い、それは暴力的な死に至ります。また暴力が極限にまで達したことで、ノアの時代には神が洪水をもって人類を滅ぼされたことが書かれています。

次に、模倣です。教会であまり注目されていない概念ですが、聖書の中ではたくさん取り上げられています。アダムは最初にエバを模倣して木の実を食べます。またこの話ではエバも、神の命令を微妙に言い換えるという蛇の行為を模倣します。暴力も、互いの欲望・願望を模倣し合い、それが激化して最終的に暴力へと至ります。創世記に多分に出て来る兄弟間の争いにも模倣が多分に現れています。聖書は我々をこのような模倣から離れ、どのような争いとも全く無縁な神という存在を模倣するように導いてくれます。

最後は、今日のフォーカスですが、供犠です。人類は文明・文化を通して、暴力が激化して共同体を破滅に追い込まないように、その暴力的衝動を抑える方法をいくつか編み出しました。先週の学びでは「禁忌」について取り上げましたが、それもその方法の一つです。もう一つは、供犠です。共同体内で争っているグループが結託できるよう共通の敵を作り、その人物にすべての「罪」をなすりつけて殺すことで一時的な平和が取り戻せます。これが繰り返されることで儀式として定着し、捧げられた人たちはコミュニティに平和をもたらす神々として崇拝と畏怖の対象となります。問題が起こった時は、その神々にさらに捧げ物が行われます。いわゆる「人身御供」です。日本でも人柱が昔よく行われていました。聖書では「生贄」「捧げ物」と言われていますが、このシリーズでは「供犠」という言葉を使っています。

供犠から救われる?

さて、ここでは「救われないといけないもの」の一つとして供犠を上げています。供犠はいけないことなのでしょうか?特にイスラエルの社会では、人を捧げることは禁じられ、代わりに動物が捧げられています。エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民が、どのように生贄を捧げるべきかは、レビ記を中心に律法の書には詳細に書かれています。

では動物に変えてしまえばすべて解決でしょうか?そうではありません。この「供犠的」な考えは人間社会の深い部分まで浸透しているのです。律法によって「聖いもの」と「汚れたもの」が線引きされ、それによって社会の要求に合わない人たちが社会的な「生贄」にされてしまうことは、聖書の中でもずっと問題視されていますし、我々の社会でも同じような現象を挙げようと思えば枚挙に暇がありません。美しく見える近代的な文化や社会が、苦しみ続ける人々の姿を覆い隠しているのです。

では、私がこうして「供犠から救われないといけない」と主張しているだけで、それは私自身の人道主義なだけで、聖書に反するのでしょうか?では、ある聖書箇所を取り上げたいと思います。

エレミヤ7:22-23にはこうあります。

わたしはあたながたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや他のいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じてう言った。わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたを幸せにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。

さあ、どうでしょう?はっきり言っています。神は生贄について何も命じていない!!レビ記などでは、全焼の生贄やその他の生贄を捧げることがはっきり命じられています。でもここでエレミヤさんはそれを全否定するのです!このような明確な矛盾をどう理解すれば良いのでしょうか?

しかし、私の友人のヘブル語の専門家で翻訳の監修などもする方は、「いや、ここには実は矛盾はない」と言います。「え、嘘でしょ、どういうこと?」と彼に聞くと「レビ記の最初を読めば分かる」と彼は言うのです。

では、レビ記の冒頭を読んでみましょう。

レビ記1:1-2

「主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが、主に捧げ物を捧げるときは、誰でも家畜の中から牛か羊をその捧げ物として捧げなければならない。」

もし!ですよ。この「もし」があるから、これは主の命令ではない、と私の友人は言い張ります。それだけでこの箇所がエレミヤ書を矛盾しないか?と言うと私は完全には納得していませんが、この「もし」は大切なポイントです。神が供犠を求めているのではなく、供犠を捧げること以外に神との付き合い方を知らない人間に神が合わせて下さっている、と考えることができます。

思い出してみると、カインとアベルも、何の命令もないのに、神の捧げ物を捧げました。またノアも方舟から出てすぐ、何の命令もないのに、生贄を捧げています。人間はもともとそういう者たちであり、神がそれに合わせつつ、そこからさらに良い道、さらに命溢れる道に導いてくれているのが聖書のストーリーなのです。エレミヤをはじめとした多くの預言者は、神が生贄を必要としていることを否定し、レビ記などの捧げ物の規定が神本来の心ではないということを語ります。そしてレビ記の中身を見てみると、その中にも既に神が人間を供犠的な生き方・考え方から導き出していることが窺えます。

レビ記

ここから少しレビ記全体を整理しながら色々な箇所を拾い上げて読みたいと思います。「律法にフォーカス」と言いながら、レビ記のテキストそのものをあまり読んでいませんし律法全体のイメージなども十分伝えられていないように感じますが、是非ご自身の時間でも読んでみてください。ここでは大まか流れと共に幾つかこのシリーズの鍵となる部分を抽出します。

レビ記1-2章には「何を捧げるか」が述べられています。Whatの部分です。

捧げることによって人が神のとの関係を築いていくことが描かれています。よくレビ記を引用して、罪を犯せば神はそれを罰せずにはいられないので、なだめが必要だと教会で教えられますが、完全なナンセンスです。またヘブル書の一カ所に注目して「血を流すことが必要だ」と言う人がいます。しかし、捧げるものには「穀物」やパン、ケーキのようなものもあります。動物を殺すだけではないし、レビ記のオープニングではそのような「神をなだめるため」というのは一切言われていません。

3-4章はWhyの部分です。なぜ捧げるかです。3章では「交わりのいけにえ」が出てきます。そして4章からは、気付かないうちに犯してしまった罪に対する生贄の過程が述べられています。出エジプト記20章以降様々な規定が並べられていますが、そのすべてを行わなければ、人が汚れたり土地が汚れたりすると考えられていました。このような状態で、もし災害が起きたり争いが起きればどうなるでしょうか?人間の習性を考えると、律法を守っていないことで互いに責め合ったり、一人の人を集団で責めることが簡単に起こり得ます。しかし、気付かずに犯した罪のために生贄を行えば、神が赦して下さるのです。よって、そのような争いは一切不必要になります。レビ記は人間を供犠から生じる様々な争いや暴力から守るように書かれている非常に画期的な書物なのです。

4:2

イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについて誤って罪を犯し、その一つでも行っていた場合

4:13-14

またイスラエルの全会衆が誤っていて、あることが集団の目から隠れ、主がするなと命じたすべてのうちの一つでも行い、あとで咎を覚える場合、彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団や罪の生贄として、若い雄牛を捧げ、会見の天幕にそれを連れてきなさい。

35祭司はその人のために罪の贖いをしなさい。その人は赦される。」

「罪を犯したら神との関係が壊れる「罪を犯すと神の罰が下る」と教会で言うのをよく聞きませんか?「クリスチャンになって罪を告白したら完全に赦されている」と言いながら、そうやって神への恐れで支配するようなレトリックが語られています。しかし、もしそれが正しいなら、なぜレビ記4章では、罪が明らかになっていない間は不問なのでしょうか?生贄を捧げない間に神との関係が壊れるとは書かれていないし、生贄の目的が神との関係の修復だとも書かれていません。生贄は、神のためではなく、人間自身のためです。神がなだめられないといけない訳ではないのです。「神が赦して下さる」ということが、共同体全体に見える形で行われることによって、責任のなすりつけ合いや暴力から皆を守ることができます。

5-6章では、わざと犯した罪でも、悔い改める心が生じた時に生贄を持ってくれば赦されると書かれています。お金が無ければ鳩でも、さらに貧しければ小麦の捧げ物でも認められます。

6-8章は祭司たち(アロンの子孫)の務めのルールが書かれています。ここはHowの部分と言えます。どのように具体的に生贄を捧げるべきかが詳細に書かれています。9章ではその祭司の任命があり、10章ではアロンの息子二人が生贄の手順を間違えて焼死するという奇怪な事件が起こります。11-15章は、聖いものとそうでないもの、食べてよい物と食べてはいけないもの、また肌の病気や他のさまざまな「けがれ」をもたらす現象にどう対処するかが書かれています。勿論古代の世界観で書かれているので、現代科学と合うものではありません。そして16章では「贖罪の日」のことが書かれています。それまでに書かれてある生贄を正しく行っても行わなくても、その儀式で一年のすべての罪が帳消しにされるというものです。

17章からは、16章までを編集したのとは別の編集者たちが書いたものだと考えられています。1-16章は「祭司資料」(Preistly, P資料)と呼ばれていて、17章からは「神聖資料」(Holiness, H資料)と呼ばれています。「わたしが聖であるようにあなたがたも聖でありなさい」と言う言葉に代表されるように、「聖さ」を重視した一部の祭司グループだったと考えられています。17章では生贄についての規定が述べられてから、18章と20章で性的に禁令が設けられています。そしてその間の19章は、レビ記の中でも最も大切な箇所だと言えるでしょう。この中に「あなたの隣人を愛しなさい」が出てきます(19:18)。

イエスがレビ記から引用するのはここだけです。他の生贄についての箇所は一切引用しませんが、この箇所だけを引用します。その文脈を理解するために、少し広げて読みます。

レビ記19:13-18

あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまづく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

供犠に対するイエスの考え

この最後の「隣人愛」の一節は、イエスにとっても同じ時代の多くのユダヤ人にとっても根幹となる箇所でした。紀元前6世紀にバビロンに滅ぼされ神殿が壊されて以来、新しい神殿を建てはしたものの、またギリシャ人やローマ人の支配におかれたユダヤ人は、すべての規定を守ることが現実的にはすごく難しい状況になっていました。その中でも、隣人を愛すること、正義を行うことはずっと律法の中心であり続けました。

イエスはマタイ9:13でも「わたしは憐れみを好むが生贄は好まない」とホセア6:6から引用して言っています。もともとは暴力が広がらないために律法の生贄の規定がありましたが、イエスの時代には、それを捧げられる人と捧げられない人を分けて、貧しい人たち、社会的に弱い立場の人たちをさらに圧迫するようなことが行わていました。生贄がビジネス化されていたことに、イエスは憤慨します。この「宮浄め」の話はすべての福音書で出てきますが、マルコのバージョンを読みます。

マルコ11:15

イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。

生贄のための「器具」の部分はマタイなどでは省かれていますが、イエスは単にかんしゃくを起こして暴れただけではなく、動物を売る場所を荒し、器具を運ぶことを止めたのは、意図的に生贄行為そのものを止めようとしています。

また、今回の冒頭でエレミヤ7章を読みましたが、「強盗の巣」はエレミヤ7:11からの引用です。イエスはエルサレムでのパリサイ派や律法学者とのやりとりの中でエレミヤ7-8章を多く引用しています。イエスも、神は本来生贄など望んでいないことを強く語っています。本来、人をスケープゴートにして殺す「供犠」が起きないように、動物を代わりにし、生贄の範囲を限定して行いようにしていたのに、それと逆行して人を差別するような「供犠的」な宗教になっていたことにイエスは怒ったのでしょう。預言書の中でも神はそのような状況に対して怒りを示しています。

申命記

先ほどはレビ記を1章から順に見ていきましたが、律法の書の中でもレビ記と対照的なのが申命記です。申命記では、レビ記のように供犠はほとんど出てきません。申命記では、出エジプト記20章以降の内容が繰り返されますが、生贄に関する規定は全くありません。それよりも、神に従うこと、神の掟を守ることが強調されています。冒頭で読んでエレミヤ書の言葉も、申命記の考え方に沿ったものです(7:23「あなたがたを幸せにするために、わたしが命じるすべての道を歩め」)。

申命記4:1-2

今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたあたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

申命記6章には、「シェマ」と呼ばれるユダヤ教の象徴的な宣言が出てきます。これは、「神を愛する」戒めで、イエスが「第一に戒め」としてあげたものです。

申命記6:4-9

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

これこそが最重要の戒め、律法の基本中の基本だというのが、イスラエルの人たちの考えでもあり、イエスの考えでもありました。最も大切な二つの戒めとして、イエスはこの箇所と、供犠について数多く書いてあるレビ記から供犠とは無縁の隣人愛の戒めを取り上げたのです。

では、イエスや初期のクリスチャンたちは、レビ記の考え方よりも申命記の考え方を採用していたのか?というと、そうでもありません。「申命記的解釈」(英;Deuteronomic Hermeneutic)と呼ばれる申命記独特の考え方があります。それは7:10-13や、30:15-20などからも分かりますが、主に従い、正しい行いをすれば、神はその民(子孫も、何世代にもわたって)を祝福し、溢れるばかりの恵みを注ぐが、もし神に従わなければ、神の呪いが身に降りかかり、滅ぼされるというものです。

その中でも特に取り上げたいのが、申命記28:23-24です。

またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。

申命記28:11やレビ記26章でも同じようなことが言われています。

イエスと申命記的解釈

神の命令を守らなければ、天からの雨が降らず、地を耕すこともできなくなるということです。しかし、イエスは何と言っているでしょうか?

マタイ5:45

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

またここだけではありません。ヨハネ9:1-3

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

弟子たちの質問は、申命記的解釈に基づいています。非常に「聖書的」なのです。でもイエスはこれをきっぱり否定するのです。申命記的解釈には賛同しません。また、マタイ5章の箇所では、我々が神のように「完全」であるように求めていますし、その「完全さ」は、善い人にも悪い人にも分け隔てなく恵みを与える神の性質、そして人に復讐をせずに赦す性質と結び付けられています。教会では、罪に対してそれ相当の罰がなければ「義」ではない、みたいなことがよく語られますが、イエスからすれば、無償で赦し、罪深いものも善良な者も同様に恵みを与えるのが義なのです。

人間は法や掟を設けて人を聖い・汚れていると分けたり、法を守れる・守れないで分けたりするが、神からすれば皆神の子供なのです。

聖書の中には、供犠が前提として書かれていることもあります。法の遵守を基に人を聖い・聖くないと分けたり、罪に対して相当な罰を与えることを肯定するような箇所もたくさんあります。いわゆる「供犠的」な箇所です。しかし、聖書がすべてそのような供犠的な箇所に同意している訳ではありません。そのような考え方、あり方から我々人間を別の生き方へと招く箇所もあります。つまり、聖書には、供犠に人間を縛りつける「宗教の声」と、そこから人間を解放し、神に導かれて新しい歩み方、人間社会の造り方へと導く「啓示の声」があるのです。聖書のそのような「二つの声」を読み分けていくことが、我々に求められていることではないでしょうか。

それについて、今後の学びでさらに取り上げていきたいと思います。

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