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今日から神の招きは新しいチャプターに入っていきます。今日は「ヨブ記」、来週は「詩篇」、そしてその次は締めに「ソロモン文学」にフォーカスします。特に今日のヨブ記と詩篇からは、被害者・犠牲者の叫び声ってものを拾いながら読むように心がけたいと思います。
聖書の読み方について
この「神の招き」シリーズでは、新しい聖書の読み方、より合理的、でもただ現代人の科学的な世界観に合致するだけでなく、より解放で本当に「それはグッドニュースだ」と言えるような聖書の読み方を紹介すること、そして皆がそれを自分で実践していけるようになることです。聖書の字面を「このように読む」だけでなく、その読み方を身の回りで起こること、ニュースで見ること、職場や学校で起こる出来事、権力や人間関係、そのような事柄の解釈や理解、それに応答する自分自身の行動にも影響するものとして、「聖書の読み方」を考えていきたいです。
今まで教会では、次のように教え込まれてきた方は多いでしょう。「人間は罪深い存在で、自分たちで救われることはできないので、神との関係が断裂した状態にある。神は罪をそのままでは赦せないので、身代わりとして罪のないイエス・キリストが犠牲となり、その尊い血潮によって、神が人類を赦すことができるようになった。」しかし、これは観念的な福音・救済にすぎなくないでしょうか。この話を素直に無批判に受け入れられるかで救いが決まるのでしょうか。結局個人レベルで受け入れられるか否かで自己完結するような福音でいいのでしょうか。
しかし、ここで提示される新たな読み方は、勿論それに通じる部分はあります。「人間は罪深い存在であり、自分たちの力で救われることはきない。人と人との関係が断裂していて、人間は自分たちを守るために弱者を生贄にし、その死をもって一致して共同体を形成してきた。このサイクルから脱出できなければいずれ人類は滅ぶ。でも自力で脱出できないどころかそのサイクルの中にいることさえ気付かない。だから神が人となって、そのサイクルの中に身を捧げることによって、そのサイクルが滅びのサイクルであることを人間に教えてくれた。そして、犠牲者・被害者・弱者の声に耳を傾け、そのような被害者を生み出さない新しい『神の国』の中に生きるようにすべての人たちを招いてくれている」。これがこのシリーズで伝えている「福音」であり、聖書のあらゆる箇所から読み解くことができるメッセージだと考えています。
そして、当然これは新約でイエスによって急に出て来るのではなく、旧約聖書から様々な所で顔を出しているのです。前回までの学びでは、それが「捕囚」の時代を通して更に強まったことを強調しました。その中で学んだことを継続しながら、特に「被害者の声に耳を傾ける」ということを、知恵文学の学びの中で特に心に留めたいと思います。
今週は受難週です。イエスが十字架にかけられました。その前に裁判にかけられ、鞭打たれ、それだけでなくずっとついてきた人たち、教えの中で「友」と呼んだ弟子たちにも見捨てられて苦しんだイエス。そのイエスは、被害者の立場となることで、そして復活することで、被害者として私たちに今も語りかけて下さっているのです。それに耳を傾けないといけないのではないでしょうか。無実を訴える被害者の叫びを聞く時、私たちはイエスの訴えだと思って聞くことができるでしょうか?是非そういったこともかみしめながら、今日の箇所であるヨブ記に飛び込んでいきたいと思います。
難解な書
ヨブ記は非常に難しい本です。どういう意味で難しいかというと、まずは言語的な難しさがあります。ちゃんとした聖書を使って読むと「原文の意味は不明」という注釈が出て来ることがたくさんあります。そう、現代のヘブル語の翻訳者でさえ、何を意味するのか分からず、大方の予想で訳している部分がたくさんあるのです。他の聖書箇所で使われている「聖書ヘブル語」よりも古い形のヘブル語が入り混じっているようです。
次に内容的な難しさがあります。どう解釈したらいいのか、どう人間として受け止めたら良いのか分からない部分も多いです。ストーリーそのものは多くの方がご存知でしょう。神がサタンと駆け引き!?そんな「ヨブが義人かどうか試す為」だけに子供が一人残らず死亡し、体中が腫物だらけになんです。そしてヨブの「友人」たちは彼を罪人扱いして、悪いことが起こるのは罪を犯したからだ!と責め立てます。先月参加して下さった方は覚えてますよね?イエスはそのような考え方を明確に否定しています。罪ゆえに災いが起こるのではない、と。最終的に神はヨブの友人を退けますが、それでもヨブの訴えに対しては明確に回答しないのです。「最後に神が出てきたハレルヤ」的に考える人は多いですが、良く読むと「お前はタダの人間で神の業は分からない」と、権威から黙らせているだけなのです。いやいやサタンと大きな賭けをしてサタンにヨブを痛めつけても良いって言ったのはあんたやろ!て言いたくなります。「理由は分からないがヨブが何かの神秘的な理由で苦しんでる」のとは訳が違うんです。しかもヨブは義人であることが最初の方にはっきり書かれているのに「お前は神を訴えるのか」的なことを神がヨブに言うのです。最終的にヨブは祝福されますが、子どもが10人が与えられて結果的に災いが起こる前よりも祝福された、という内容で締めます。でも亡くなった子供たちは返ってこないのに、その「祝福」はあまりにも人命や人の尊厳を軽視した対する考えではないか?と感じるのは私だけではないでしょう。
最後に文献学的な難しさがあります。ただ、この文献学からの成果が、先ほどの内容的な難しさを説く鍵となるんです。ヨブ記は、明確に「物語部分」と「詩的部分」に分かれています。そしてオリジナルが詩的部分だけだったのではないか?という考察が進んでいます。物語部分は後世の創作であり、後に挿入されたという考えが今では主流です。その証拠として、①詩的部分には、物語の内容を示唆する具体的な部分が全くない。家族の死や体中にできた腫物に対する言及が皆無。一つの完成した作品としてはどう考えてもおかしいが、詩的部分が先にあって、物語部分が後で追加されたと考えると自然。また、②使われている神の名が違う。ヤハウェは詩的部分では1回しか使われていないのに対して、冒頭のサタンとのやり取りを描写した物語部分では多用されている。詩的部分では「シャダイ」(全能なる神)が使われているが、それは他の物語部分には見られない。そのような要素で、指摘部分が先に独立した作品としてあり、物語部分が後に挿入されたという説が強いです。
ヨブはスケープゴートにされた?
1-2章のプロローグ部分が後付けなのは明らかで、42章のエピローグも後付けで間違いないでしょう。それ以外では、エリフの言葉とそれに対するヨブの反論、そしてその後に続く神の応答の部分も、後の追加の可能性が指摘されています。詩的部分も、何段階かで加筆が行われた可能性が考えられます。
てことは、ヨブ記が詩のみだったときは、全く違った意味合いを持っていたと考えられます。「俺は無実」と言い張っているのに対して、他の人が複数人「お前は罪人だ、受け入れろ、悔い改めろ」と迫る構造。つまりスケープゴート行為について歌った詩なのです。ヨブは共同体によってスケープゴートにされてたのです!
流れとしては、まずヨブに対して、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの3人が責め立てます。一人ずつヨブの非を指摘し、それに対してヨブが自己弁護する、という形式が3回繰り返されます。それからエリフという人物が新たにが登場し、3人と同じような攻撃を繰り返す。ヨブがそれに反論してから、次は神が登場して、ヨブに自然界について語りかけます。42章のエピローグでは、神が3人の友人を咎めて、エリフは不問とされ、ヨブは大いに祝福されて終わります。
詩的部分から何箇所か拾って読みたいと思います。まず3章でヨブが自身の弾正の日を呪いますが、その後にエリファズが登場し、「無実の者が滅びることはない」そして「人間ごときが神の前に正しくあれるわけがない」といい、消去法でヨブが罪を犯したという結論を押し付けようとします。一部抜粋しながら流れを追っていきたいと思います。
4:7-9
さあ思い出せ。だれか罪のないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。
4:17-20
人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。
これに対し、6-7章でヨブの回答があります。彼は自分が私は神に背いていないと言い張り、味方もおらず私はどうせ死ぬ運命だと嘆きます。
6:24-30
私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。あなたがたはことばで私を責めるつもりか。絶望した者のことばは風のようだ。あなたがたはみなしごをくじ引きにし、自分の友さえ売りに出す。今、思い切って私のほうを向いてくれ。あなたがたの顔に向かって、私は決してまやかしを言わない。どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。私の舌に不正があるだろうか。私の口はわざわいをわきまえないだろうか。
7:11-21
それゆえ、私も自分の口を制することをせず、私の霊の苦しみの中から語り、私のたましいの苦悩の中から嘆きます。私は海でしょうか、海の巨獣でしょうか、あなたが私の上に見張りを置かれるとは。「私のふしどが私を慰め、私の寝床が私の嘆きを軽くする」と私が言うと、あなたは夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。それで私のたましいは、むしろ窒息を選び、私の骨よりも死を選びます。私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです。
人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。私が逸見を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私はちりの中によこたわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません。
次に三人衆の2人目、ビルダデが登場します。「神は正義を歪める方ではない、あなたが無実なら神は助けて下さるはずだ」とヨブに迫ります。
8:20-22
見よ。神は潔白な人を退けない。悪を行う者の手を取らない。ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。あなたを憎む者は恥を見、悪者どもの天幕は、なくなってしまう。
9-10章でヨブは更に反論するだけでなく、今度は神ご自身に訴えます。「あなたは人間と同じようにしか見ないのか!」「私が無実だと知っていながら罰するのか!」と訴え、「どうせ私は罪人だ」と言って、自分を訴える人達のナラティブに合わせてしまうという、スケープゴートにありがちな現象も見られます。
9:13 -20
神は怒りを翻さない。ラハブを助ける者たちは、みもとに身をかがめる。いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交わせようか。たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。たとい私が正しくても、私自身の口が私を罪ある者とし、たとい私が潔白でも、神は私を曲がった者とされる。
次はいよいよ3人目の登場。ツォファルはヨブに対して「お前は喋り過ぎだ、神の知恵は神秘で分からない、お前は本当はもっと苦しめられても文句言えない、これは複雑すぎて到底理解なんかできない」と言って更に苦しめます。
11:2-6
ことば数が多ければ、言い返しがないであろうか。舌の人が義とされるのだろうか。あなたのおしゃべりは人を黙らせる。あなたはあざけるが、だれもあなたを恥じさせる者がない。あなたは言う。「私の主張は純粋だ。あなたの目にも、きよい」と。ああ、神がもし語りかけ、あなたに向かってくちびるを開いてくださったなら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、すぐれた知性を倍にしてくださるものを。知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。
3人の原告側の訴えが一旦済んだところで、12-14章を通してはヨブは改めて答弁します。「私を無知な愚か者のように扱うな。お前たちに神の代弁ができるのか?」と言ってから、「私は神の前で自分を弁護してから死ぬ」と自分の運命を受け入れつつも、自分が無実だという確信は揺らぎません。
13:2-5
あなたがたの知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。ああ、あなたがたが全く黙っていたら、それがあなたがたの知恵であったろうに。
ここで責め立てる3人が再びヨブに襲い掛かります。エリファズは、ヨブは神を恐れず自分の舌で自分を罪に定めている、また神と論じる資格などお前にはない、と言い放ちます。
15:2-14
知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。
あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。あなたが知っていることを、私たちは知らないのだろうか。あなたが悟るものは、私たちのうちに、ないのだろうか。私たちの中には白髪の者も、老いた者もいる。あなたの父よりもはるかに年上なのだ。神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。なぜ、あなたは理性を失ったのか。なぜ、あなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。人がどうして、きよくありえようか。女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。
16-17章では、「お前たちは慰め手として最悪だ、俺の立場になってみろ」とヨブは言い返し、「自分は神に見捨てられたシオールに行くのか…」と嘆きます。16:18「 地よ。私の血をおおうな。私の叫びに休み場所を与えるな。」はカインに殺害されたアベルを思い出さされます(創世記4:10-12)。
18章では、ビルダデが「悪者の光は消し去られる」ことを論じ、19章でヨブはそれに対し「これ以上俺を苦しめるのはもうやめてくれ」と訴え、また「暴虐だ」と叫んでも正義などないことを嘆きます。「友も家族も私の敵」と、まさにスケープゴート状態です。「でも救い主は生きている、向こう側で会えるだろう」と神に望みを置きます。
19:2-12
いつまで、あなたがたは私のたましいを悩まし、そんな論法で私を砕くのか。もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。もし、私がほんとうにあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか。あなたがたがほんとうに私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで、私を責めるのなら、いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。見よ。私が、「これは暴虐だ」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない。私の通り道にやみを置いておられる。神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた。神が四方から私を打ち倒すので、私は去って行く。神は私の望みを木のように根こそぎにする。神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のようにみなされる。その軍勢は一つとなって進んで来、私に向かって彼らの道を築き上げ、私の天幕の回りに陣を敷く。
20章のツォファルの言葉からは、ヨブ記の哲学的論争の中心、また聖書の他の箇所にも、そして現代に続く哲学的命題にも繋がる重要な論点が扱われています。ツォファルは「悪者の喜びは続かない、そのうち神の怒りを被る、天が罪人の罪を明かす」と言うのに対し、21章でヨブは「でも悪者は実際に生き永らえるではないか!なぜなのか!」と言い返し「悪者が滅びれば良いのに。君たちは悪者の証を信じるのか?」と反論します。
21:7-26
なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか。彼らのすえは彼らとともに堅く立ち、その子孫は彼らの前に堅く立つ。彼らの家は平和で恐れがなく、神の杖は彼らの上に下されない。その牛は、はらませて、失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで、仕損じがない。彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。彼らはタンバリンと立琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。彼らはしあわせのうちに寿命を全うし、すぐによみに下る。しかし、彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか」と。見よ。彼らの繁栄はその手の中にない。悪者のはかりごとは、私と何の関係もない。幾たび、悪者のともしびが消え、わざわいが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを分け与えたことか。彼らは、風の前のわらのようではないか。つむじ風に吹き去られるもみがらのようではないか。
神はそのような者の子らのために、彼のわざわいをたくわえておられるのか。彼自身が報いを受けて思い知らなければならない。彼の目が自分の滅びを見、彼が全能者の憤りをのまなければならない。彼の日の数が短く定められているのに、自分の後の家のことに何の望みがあろうか。彼は神に知識を教えようとするのか。高い所におられる方がさばきを下すのだ。ある者は元気盛りの時に、全く平穏のうちに死ぬだろう。彼のからだは脂肪で満ち、その骨の髄は潤っている。ある者は苦悩のうちに死に、何の幸いも味わうことがない。彼らは共にちりに伏し、うじが彼らをおおう。
22章では、エリファズは更にヨブを責め立て、「あなたの罪が果てしないのだから、神に同意して平安を保ちなさい」と諭します。
22:5
いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないか。あなたは理由もないのにあなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り、疲れている者に水も飲ませず、飢えている者に食物を拒んだからだ。土地を持っている有力者のように、そこに住む有名人のように、あなたはやもめを素手で去らせ、みなしごの腕を折った。
23-24章のヨブの答弁では、ヨブはついに「神はどこにもいない」と嘆き、25章でビルダデが「たかが人間が義な訳がない」と論じます。26-27章でヨブはまたまた「神は理解不能だ」と言い張ります。28章には後世の挿入との指摘もある「知恵」についてのポエムがあり、29-31章でヨブがまたまた自己弁護し、最後に神の出廷を要求します。裁判にかけられているはずのヨブが、神御自身の法廷への召喚を求めるのです。
29:11-25
私について聞いた耳は、私を賞賛し、私を見た目は、それをあかしした。それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。死にかかっている者の祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。 私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。
そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように、私は日をふやそう。私の根は水に向かって根を張り、夜露が私の枝に宿ろう。私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。私は彼らの道を選んでやり、首長としての座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった。
この後、話は締めへと加速します。32章にエリフ登場し、33-37章でヨブを叱り、神の偉大さを語ります。言っていることは他の3人と大して変わらないように思えますが、ヨブからの反論もなく、またその後に他の3人のように咎めを受けることもないことを考えれば、この部分は別の独立した作品かもしれません。
38-41章では、いよいよ神が語ります。お前は自然界のことを全部知ってるのか?とヨブに問いかけます。42章はエピローグで、ヨブの3人の友人は恥をかかされ、ヨブは正しい者とされ、祝福されて終わります。
特に詩的部分の「原告側」の主張に注目すると、ヨブに対して向けられている訴えが、スケープゴートとして殺される被害者が訴えられるパターンであることが分かります。簡単に言えば、具体的に何をしたかは明言されないが、とにかく「お前が悪い」ということです。いつも言っていますが、何か悪いことを犯したから災いが起きる、という考えはイエスによって明確に否定されていますし、ヨブ記もその終わり方を見ると、その考え方に否定的なのが分かるでしょう。
ですから、元々の詩的部分は「スケープゴート現象」を暴いているものだったと考えられます。誰が読んでもヨブが不当に殺されそうになっていると分かるでしょう。しかし、それにプロローグとエピローグが追加されること、さらに聖書が「誤りなき神の言葉」としてすべて字義通り、史実として読む読み方が浸透したことによって「災いが起こっても神を信頼する」「文句を言わずに我慢するのが正しい信仰」のようなヨブ記の使い方がされるようになったのは、非常に残念なことではないでしょうか。
イエスの十字架に想う被害者の苦しみ
ここでイエスの十字架のシーンを是非回想したいと思います。マルコ15章とイザヤ53章を読みますが、読む中で身の回りで理不尽に苦しんでいる人を思い浮かべてほしいと思います。物理的・肉体的な苦しみでも、精神的な苦しみでも、社会的な差別や貧困などでも構いません。直接知っている人でも、ニュースを通して知っている人でも、個人でもグループでも構いません。
マルコ15:22-32
そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
次に、クリスチャンの間でイエスの十字架の預言とされるイザヤ53:1-8
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
ここでは、復活の確約があったわけではないことが分かるでしょう。初期のクリスチャンたちは、完全な絶望の中で打ちのめされて死んでいくしもべ姿を、人イエスに重ねてイエスの十字架を伝えていったのです。ピリポがエチオピアの宦官に伝道したストーリーからも分かります。
十字架の視点から
パウロが「 イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した 」(1コリント2:2)と言ったように、初期のクリスチャンたちは、復活して勝利した視点から福音のストーリーを語ったのではなく、不当に叩かれて打ちのめされた被害者の立場から語ったのです。
勿論イースターは盛大に祝いましょう。イエスの復活は我々の希望であり、この世のすべての理不尽の悪や苦しみの中でもキリストが主であることを確信させてくれます。しかし、イースターの場所に立ってゴルゴタを回想するような信仰になってしまうと、十字架の本質は見失うおそれがあると思います。イエスの苦しみ、ヨブの苦しみ、その悔しさ、理不尽さを噛みしめることは、キリスト教信仰において欠かせないものではないでしょうか。「神はすべて支配されている」「神のわざは人間には分からない」と「勝利者」の立場から言い放つのは、無責任な逃げでしかないですし、そんな宗教は誰にも救いをもたらしません。
私たち人間が長年築いてきた社会が、計り知れないほど多くの苦しみを生んでいるということを直視し、自分たちの罪を悔い改めていく必要があります。そして二度とヨブのような人を出さないために、イエスを十字架に何度も打ち付けるようなことがなくなっていくように、立ち上がって、少しずつ自分の周りからできることをしていこうではないですか。
これは、実は「救いの招き」を行ってるんですよ?説教の終わりに「クリスチャンになりたい人、前へ」てやっている訳ではないですが、心から「皆クリスチャンになろうぜ!」て伝道しています。既にクリスチャンであるかもしれませんが、それは「○○を信じます」とか「自分は罪人だと認めてイエスが代わりに背負ってくれて・・・」などの告白を引き出すことではないです。三位一体を受け入るか、でもないです。「イエスの十字架を真剣に受け止めて、イエスが命を差し出してまで教えてくれた真実を受け入れますか」ということです。人間の罪ゆえに多くの人たちが苦しんでいます。そしてその苦しみが覆い隠されたり「神」を無責任に語る人によって仕方ないものとされ放置されたり、時には正当化されたりするのです。そのような罪に向き合いませんか?それをやめて、その下敷きにされている人たちが救われ、助けられるように一緒に働いていきませんか?
そのような「神の招き」に応じる人が一人でも増えていくことを心より願っています。
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