2021年2月11日ツイキャス https://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/666709880
再開
昨年の10月以来、かなり久しぶりにツイキャスを行うことができました。本日から「神の招き」を再開します。昨年6-10月に行っていた学びを「シーズン1」とし、今日から「シーズン2」として学びを継続していきます。
タイトルに込められた意味
このシリーズは「神の招き」というタイトルにしています。もともとは「聖書の人間論」というタイトルを考えていましたが、堅苦しい響きでとっつきにくいと思って変更しました。しかし「神の招き」も、何を指すのかを説明しないと抽象的なもので終わってしまいます。
究極的には聖書のメッセ―ジをどう捉えるかについての考えです。多くの教会では、聖書は人間が生まれながらの罪人であり、それ故に神との関係が断絶され、その断絶を克服して和解を達成するためにイエスが犠牲になられた、という流れの贖罪論が説かれます。
贖罪論は、人間が罪人でありながらなぜ神との関係を持つことができるようになったのか、或いは人間がどのようにして救われることができたのかを説明します。人間の罪は、人間的な方法では決して取り除くことができない根源的なものであるが、イエスの十字架が罪を取り除く唯一の方法として提示されます。
しかし、そのような贖罪論では、どうしても道徳的・祭儀的な罪、「聖いもの」と「汚れたもの」の線引き、要するに「キリスト者として何が正しいか正しくないか」という問いが信仰の中心となってしまいます。しかし聖書全体を読むと、そのようなフォーカスが聖書全体のメッセージを纏める説明として本当に相応しいのか、という疑問と共に、現代の社会における様々な問題との関連性が著しく希薄になると感じます。
そのような贖罪論に抗することもこの学びのシリーズの大きなポイントです。したがって、聖書のメッセージを「十字架によって霊的な意味で人間の罪が取り除かれて神と関係を持つことができる」という捉え方ではなく、聖書の最初から最後まで「神は人間は新しい〝あり方″へと招いている」という捉え方で聖書を読んだ方が、そのすべてを際限なく包含したメッセージを語れるし、この世界で身の回りにリアルに起きている諸々の問題との関連性も深まるのではないか、という考えです。
つまり、聖書は「十字架という一つのイベントによって人間の罪の問題を魔法的に解決した」のではなく、十字架が神の人間の罪問題の解決の最たる現われであることを認めつつ、聖書を通して絶え間なく人間を〝神の国″の生き方へと導く「神の招き」があるということを聖書から読み取っていきたいのです。
つまり、纏めるとこのようになります。
・聖書の中には、ある種の人間論が提示されている。「人間とはこのような存在だ」ということを数々の物語を通して語っている。
・聖書はその人間のあり方を否定的に語っている。これは根源的なものであり、それを解決しなければ人間は滅びに至るという警告が聖書の中で発せられている。
・しかし、その警告と共に、そのような「古い生き方」から人間を変え、新たな生き方・人間としてのあり方へと聖書は人間を導いている。
概念理解とアプローチ
このような読み方をすれば、教会で教わってきたキリスト教用語や概念に対してももっと広がりのある視点を持つことができます。
・「救い」は死んだら天国に行ける保証でもないし、個人的にイエスと関係を持っていることで達成されるという矮小化されたものではなくなります。「個人」という要素を捨てる訳ではなく、個人、家族、コミュニティ、民族、国も含め、すべての人が苦しみから解放されて神の豊かさの中で生きること、という理解へと広がっていきます。究極で言えば「人類」の救いです。このままだと人類は滅ぶ(死、地獄、ゲヘナ)という聖書の警告をシビアに捉えます。ありふれた贖罪信仰に否定的だからといって「罪を軽視している」わけでは全くないです。聖書が啓示している「人間のあり方」の問題を真摯に見つめ直し、そこから聖書が語る「新しいあり方」へと進むことで、救い・天国・永遠の命への希望を見出します。
・「赦し」も考え方が変わります。イエスが身代わりに死んでくれたからそれを信じればすべての罪が赦される、ではないです。神の赦しには生贄が必要で、それがイエスを通して捧げられたから赦された、のではありません。神は豊かに赦しをお与えになる方で、神から私たちの心に働きかけ、新たな生き方へと導いて下さいます。同時に、相手に実害を与えた場合には「キリストを信じたから私は赦された」という訳にはいきません。神は人間同士が和解することを願っておられます。損害を与えた相手に弁済する必要があることもあるでしょうし、真に悔い改めて新しく生きようとする姿勢を見せる必要もあるかもしれません。モーセの律法でも、人に対する負債は生贄では解消できませんし、イエスも神に捧げ物を持ってくる前に兄弟と和解するように教えています。
・「罪」という概念も既存のものから変わっていくでしょう。道徳的なこと、律法的なことで「これは罪」「これは罪でない」という判断は不毛となります。聖書が問題として語る根源的な「人間のあり方」にまつわるあらゆる要素が「罪」として認識されます。罪は確実に人間を破滅に導くもので、人間の努力や頑張りで克服できるものではありません。この点では、従来のキリスト教の罪理解とさほど変わりませんし、「原罪」の教理とも合致します。そこから抜ける道は、イエスに従うこと、聖書が提示している「神の招き」に応答することです。
・「弟子としてのあり方」も変わります。律法やキリスト教的倫理道徳を守ることや、教会の典礼を行うことではありません。それらのことは何も悪いことではありませんが、それがキリストの弟子を定義付けるものではないでしょう。キリストの弟子は、まさに世界を変える者たちです。神の国の到来をアナウンスし、そこに人を招いていきます。何か世界を救うヒーローになるというものではありません。現に「今の人間のあり方」の中でもだえ苦しんでいる人たち、現実的な意味で滅びに向かっている人たちが大勢います。私たちの周りにもたくさんいます。その人たちに手を伸ばし助けることこしが神の国の実現であり、救い・永遠の命なのです。
上記に加えて、このシリーズの学びで理解していただきたいことが他にもいくつかあります。
・聖書を読みまくります。覚悟して下さい!今まで教会で聞いたこともないような箇所も沢山読みますし、聖書のテキスト、実際に何が書いてあるか、というのを非常に大切にします。ですから、教会で「○○は聖書にはっきり書いてある」と教えられてきたものの、よく読むとそんなこと書いていない、ということも多々あるでしょう。
・「聖書に何が書いてあるか」「何が書いていないか」を認識しながら、書いてあることの裏を探ろうとします。これは当然我々の想像・憶測の範疇ですが、専門分野の研究も活用しつつ、テキストの時代背景や人間の習性を十分に考慮し「真相」に迫るという活動は常に行います。私が学びの中で提示する「真相」には同意できないかもしれませんが、それはそれで全く構いません。
・聖書が一字一句誤りがない、という立場は採りません。書かれていることすべてが神の御心だとも思いませんし、「神が」と書いていても、それは神じゃないという可能性も考慮します。
去年の10月で一旦学びが途切れたことで、「シーズン」に分けることになりましたが、形は同じように行います。シーズン2もシーズン1と同様、4章に分けて行い、それぞれの章で3回の学びと1回の振り返りを行います。
シーズン1は、「創世記」「律法」「放浪から王政へ(士師時代)」「王国の誕生(ダビデとソロモン)」の4つの章でした。シーズン2では「王国の衰退」「知恵文学」「大預言者」「小預言者」の4章で行います。来週から「王国の衰退」の中で、エリヤやエリシャの預言者たちを取り上げたり、ダビデとソロモンの全盛期から、ユダヤとイスラエルがどのようにして滅びに向かっていったか、その中で聖書を人類に対してどのようなメッセージを発しているかを読み取っていきます。
短い学び:マタイ9章
今日も一箇所聖書を読みたいと思います。今日は「オープニング」ということで比較的短い箇所を一つだけ取り上げます。
この箇所を読んで、聖書が、そして聖書全体のクライマックスとしてのイエス・キリストが、私たちを新しい考え方、生き方、人間としてのあり方へと招いて下さっている、というメッセージを受け取ってほしいです。聖書の中には、人間の「古いあり方」と「新しいあり方」の両方が提示されていると考えられます。片方だけであれば、「新しいあり方」をなかなか認識できません。それが対比されて語られることで、聖書が本来人間に語ろうとしていること、人間を招こうとしている神の国を読み取ることができます。
「古いあり方」では、社会秩序を守る為、また大多数の「平和」を守る為に少数派や弱者、社会的に都合の悪い人たちを犠牲にしても構わない、という考え方が根底にあります。これを本シリーズの中では「供犠的」と呼んだりもします。しかし「新しいあり方」では、そのように「自」と「他」を分けて他者を差別して犠牲の対象とするあらゆる垣根を壊し、違いを超えて愛し合う人間としてのあり方が提示されています。是非それを意識して、次の箇所を読んで下さい。マタイ9:1-17です。
マタイ9:1-8
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒瀆している」と言った。イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は起き上がり、家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。
ここでも「古いあり方」と「新しいあり方」の対比が読み取れます。古来、イスラエルの思想の中には、病気や障害はその人または親の罪に由来する、という考えがありました。イエスはこの考えには明確に反対します(ヨハネ伝の話などにも見られます)。罪が赦されるためには、生贄を捧げるなどの祭儀的なプロセスが定められていて、それを行わないと神には赦されない、と律法学者たちは考えていたので、目の前に寝たきりで急に現れた人に対して即座に「あなたの罪は赦された」と言うのは、彼らからしたら冒涜行為に思えたわけです。
でも、イエスは新しい〝あり方″を示しに来られました。神は、人の罪や行いの報いとして病気を与えられるお方ではない、寧ろ罪を寛大に赦して下さる方、そして体の癒しも豊かに与えて下さる方であることが啓示されています。因果応報の神ではなく、多くの人々が罪に塗れて苦しむ世の中において、恵みと憐れみを与えられる神です。
9:9-17
イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」
「古いあり方」では(今にも見られますが)、自分たちと同じ属性の人(同じ宗教、同じ民族の人)は聖く、それ以外の人たちは汚れている、とされます。多数派の属性に沿った慣習が定められ、法文化され、それを守らない・守れない人たちを排除するという秩序によって社会が円滑に回ります。しかし、イエスは「罪人」と社会からレッテルを貼られていた人たちをも積極的に招き、交わりを持ちました。「医者を必要とするのは病人、私が来たのは罪人を招くため」。素晴らしい言葉です。自分たちは、神の前にはすべて罪人、罪に満ちた世界の中に生きていることを認識できてこそ、イエスの招きを受け取れる訳です。自分たちは聖いのだ、と考えているうちは、その招待状にすら気付かないのです。
ここでイエスは「神が求めるのは生贄ではなく真実の愛だ」と言います(別訳では「憐れみ」など)。これは預言書の中でも繰り返し語れていることです。生贄にするということは、何か(古くは「誰か」)を殺すという行為です。そうではなく、神は愛、恵み、憐れみを求めている、属性に関わらずすべての人を受け入れる神の包括的な愛こそが、神の国であり、皆がそこに招かれているのです。
古いあり方、新しいあり方
イエスが示した新しいあり方を生きようとしても、人々を古いあり方へと引き戻そうとする力が必ず働きます。イエスが新しいあり方をもたらしたのに、それを古いやり方と結び付けようとしたり、古いあり方に根付いた枠組みの中に嵌めようとする人たちが必ずいます。そういうのを、布やワインの喩えで話したのでしょう。
このように読むと、イエスが「新しいあり方」をもたらしたとすると、イエス以前の「旧約聖書」は「古いあり方」の部分だ、と単純に分けたがる人も居ます。名前も「新約」「旧約」となっていることも、そのような印象を与えます。福音主義、原理主義的な信仰から脱却してもっと寛容なリベラル寄りの信仰を模索してる人にもこのように考える人が多く、旧約聖書の暴虐的な神イメージを嫌って新約のイエスが教える神イメージに全振りした方が心象的に受け入れやすいのも理解できます。
しかし、そのような読み方は間違いだと思います。確かに旧約聖書には暴虐的で人の命を何とも思わない神像が描かれている部分があり、その部分は本当の神の姿ではないということは声を大にして言いたいです。しかし、旧約の中にもイエスを中心として語っている「新しいあり方」が存分にあらわれているのはシーズン1でも見ました。古いあり方から新しいあり方へ導かれているように読める箇所、古いあり方の文脈の中に新しいあり方がポツンとあって読み手を唖然とさせて再考を促されるようの箇所、また古いあり方と新しいあり方が対立している箇所などもあります。シーズン2ではそのような箇所がさらに沢山出てきます。
旧約・新約とそのように二分化する必要はありません。新約のイエスの教えが、「神の国」のフルオープン、「新しいあり方」を最も強く表現した箇所ですが、旧約聖書には人間の古いあり方の描写、なぜ変わらないといけいないのか、そして「新しいあり方」の紹介が至るところに含まれていて、旧約から新約まで、すべての聖書の書物を通して、神の国が徐々に啓示されていっているのです。
私たちのすべきことは、聖書の中でそれを分別することだけではありません。教会の中で、強いていうなら「キリスト教の教えの中」で、「古いあり方/宗教的なもの」と「神の啓示である新しいあり方」を分別して正しく批判していくことも重要になってきます。また社会の中でもそれを見分け、自分の家族や職場などでも、。少しずつ「新しいあり方」の価値観を広めていくことが、キリストの弟子としての生き方ではないでしょうか。古い方向へ引き戻そうとする力が、教会の中でも働きますが、イエスが教えた「神の国」のあり方を知恵と勇気を選び取っていけるよう、これからも共に学んでいきたいと思います。
コメントを残す