神の招き11「ダビデの闇2」

2020年9月17日ツイキャスhttps://twitcasting.tv/kenfawcjp/movie/641142766

聖書の中に隠されていること

前回「ダビデの闇」について学びました。今まで何とも思っていなかった話にも、実は黒い裏があるかもしれない、と思っていただければ幸いです。もっとそのような目線で聖書を読むことが大切ではないでしょうか。

今回も「ダビデの闇」を継続します。いやあ、教会学校などで皆のヒーローとして取り上げられるダビデをボロクソに叩くの楽しいです!でもそんなことをしていると「ダビデをスケープゴートにしている!」というブーメランが…

勿論ダビデという個人を糾弾したいのではなく、人間社会が自分たちの悪事を覆い隠す実態を明らかにしたいのです。聖書は至るところで、時には表面上隠しながらモグラが穴を掘ったあとみたいに「裏に何かがある」と思わせるヒントを残していたり、また別の時には明確にスケープゴート行為(大衆の罪意識を和らげる為に一人に罪を着せて滅ぼすこと)や権力を盾に取った不正や搾取が行われていることが描かれているのです。

要するに、このシリーズ全体で皆さんに問いかけてるのが「『人間社会はこういうものだ』と言える明確なパターンがありますか?」「それは良いものですか?そこから生まれるのは命ですか、それとも死ですか?」てことです。このシリーズで取り上げているスケープゴート行為は、人間の文明史のあらゆるところで見られますが、それらは我々の中にしみついた「常識」「世の常」という感覚で見えなくなっています。それは無実の犠牲者を生むだけでなく、犠牲者を生んでいるという実態まで隠してしまう非常に悍ましいことですが、それを聖書は他のどんな書物よりも気付かせてくれている、というのが私の大きな主張の一つです(他のもそれに気付かせてくれる古代の宗教書や哲学書などがあれば是非ご教授いただきたいです)。

犠牲者に罪を着せて犠牲行為を正当化させる⇒犠牲行為を別のストーリーに書き換える⇒犠牲者を神格化させる

このプロセスにより、共同体全体で行ったリンチ殺人は、いつしかその共同体のアイデンティティの根源に位置付けられる『神話』となるのです。そこに登場する犠牲者は、「神」となり、今もその共同体に力をくれ、供犠を繰り返し人々を殺し続けることも承認し、人々の命が神に捧げられることで加護を与えてくれます。

そのような慣例が体系化・組織化されたのが「宗教」です。多くの社会で組織宗教が廃れた今でも、その考え方が構造的なDNAとして人間社会に残っています。「宗教」とは認識しない分野でも、そのようなことが実際に起きているということを社会事情から読み取れるようになっていただきたいのです。それにもっと敏感になる為の訓練として最高の教材が、聖書なのです!

身の回りにも「無実の犠牲者」「スケープゴート行為」のストーリーが起きたり、或いはその「書き換え」が起きてるかもしれません。クリスチャンはそれに加わるのではなく、それを暴き、そこから人々を救い、社会を変えていくことで神の国を築いていくものでありたいですね!

ダビデの約束1

さて、長い前置きでしたが、聖書を読んでいきましょう。ダビデが交わした二つの「誓約」が描かれています。まずは「イイ話」、それから「グロい話」を順に見ていきましょう。

IIサムエル記9:1-13

ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」
サウルの家にツィバという名のしもべがいた。彼がダビデのところに召し出されたとき、王は彼に尋ねた。「あなたがツィバか。」すると彼は答えた。「はい、このしもべです。」
王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」
王は彼に言った。「彼は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家におられます。」
そこでダビデ王は人をやり、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。
サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は答えた。「はい、このしもべです。」
ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの父祖サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」
彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」
そこで王はサウルのしもべツィバを呼び寄せて言った。「サウルと、その一家の所有となっていた物をみな、私はあなたの主人の子に与えた。
あなたも、あなたの息子たちも、あなたの召使いたちも、彼のために地を耕して、作物を得たなら、それはあなたの主人の子のパン、また食物となる。あなたの主人の子メフィボシェテは、私の食卓で、いつも食事をすることになる。」ツィバには十五人の息子と二十人の召使いがあった。
ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。
メフィボシェテにはミカという名の小さな子どもがいた。ツィバの家に住む者はみな、メフィボシェテのしもべとなった。
メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。

良い話ですね!神様は王であったサウルを退けられて、それでダビデが王になれました。その中でサウルも、サウルの息子のヨナタンも死んで、ダビデは結果的にサウル一家から王座を譲り受けました。ヨナタンとは固い契りを交わすほどの仲でしたが、サウルは妬みから自分の命を狙った存在。それでもヨナタンとの友情ゆえに、サウル一家のものを祝福したいと願い、足が生まれつき弱いヨナタンの子メフィボシェテに多大な祝福を与える、という話です。すばらしい!

でも、ここにも何か裏があるというヒントがあるんです。単純に「ヨナタンの子に恵みを施したい」ではなく「サウルの家のもの」なんです。果たしてメフィボシェテ以外に「サウルの家のもの」はいるのでしょうか?勿論います。その人たちの扱いは、全く異なるものでした。次の話を読みましょう。

ダビデの約束2

IIサムエル記21:1-14

ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」
そこで王はギブオン人たちを呼び出して、彼らに言った。—ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。—
ダビデはギブオン人たちに言った。「あなたがたのために、私は何をしなければならないのか。私が何を償ったら、あなたがたは主のゆずりの地を祝福できるのか。」
ギブオン人たちは彼に言った。「私たちとサウル、およびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また私たちがイスラエルのうちで、人を殺すことでもありません。」そこでダビデが言った。「それでは私があなたがたに何をしたらよいと言うのか。」
彼らは王に言った。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを滅ぼしてイスラエルの領土のどこにも、おらせないようにたくらんだ者、
その者の子ども七人を、私たちに引き渡してください。私たちは、主に選ばれたサウルのギブアで、主のために、彼らをさらし者にします。」王は言った。「引き渡そう。」
しかし王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンとの間で主に誓った誓いのためであった。
王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、
彼らをギブオン人の手に渡した。それで彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人はいっしょに殺された。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ、死刑に処せられた。

アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。
サウルのそばめアヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。
すると、ダビデは行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから取って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで殺した日に、ペリシテ人が彼らをさらしたベテ・シャンの広場から、彼らが盗んで行ったものであった。
ダビデがサウルの骨とその子ヨナタンの骨をそこから携えて上ると、人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。
こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。

なんと悍ましい話でしょう!しかし、色々な人が出てきて、何がどうなって、なぜ7人の人が死刑になったのか、少しややこしいので、細かく紐解いていきましょう。

まずギブオン人は、イスラエル人ではありません。ヨシュアの時代に、シナイの荒野からカナンに入って来たイスラエル人は、カナン人を全部滅ぼすつもりだった。そのカナン人の中に「ギブオン人」という部族がいて、イスラエルに滅ぼされることを恐れてある策を練りました。ヨシュアに人を遣って「自分たちは遠くに住む外国人です」と言ってヨシュアに自分たちを滅ぼさないように交渉し、ヨシュアはそれを承諾して滅ぼさないと誓約します。しかし、あとでヨシュアたちは彼らがカナン人だった、つまり本来絶ち滅ぼすべき人たちだったと気付きます。しかし既に交わした誓約を反故にすることはできないので、その人たちを半ば奴隷みたいな形で建設作業などの重労働に従事させることにしました(ヨシュア記11章)。ギブオン人たちも、殺されるよりは、ということでそれに従い、イスラエル人の中に住み着きました。

しかしサウル王は「主への熱心のあまり」ギブオン人を滅ぼそうとしたそうです。この具体的な話は残念ながら聖書には書かれていませんので、サウルがどのような理由でどんな形でギブオン人を攻撃したか詳細は分かりませんが、何人かが殺されたんでしょう。ギブオン人は所詮奴隷に等しい身分なので、復讐することもかなわず、ずっとそのことを根に持っていたと想像できます。

そしてダビデの時代になり、サウルを支持した一味との戦いや諸外国との戦いは一段落つきます。しかしイスラエルに飢饉が起きてしまい、なかなか収まりません。このような時に、古代の人々は神に生贄を捧げようと考えることが多々ありました。自分の王家を固く確立したダビデでしたが、本来王家であるはずのサウル一族でまだ生き残っている人たちがいます。ダビデもいずれは自分の子に王位を譲りますし、将来どのような争いになるかも分からないので、王家サウルを何らかの方法で完全に立ち滅ぼそうと企んでたいて可能性は十分に考えられますよね。もう一度そのような視点でこの話を読んでみましょう。

ダビデの約束2再読

1 ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」

サウルには、ギブオン人を殺した罪がある!そして血には血をもって報いなければならないという考えもあるので、これを利用すれば邪魔なサウル一族を消せるかもしれません。まさにチャンス到来!?

2 そこで王はギブオン人たちを呼び出して、彼らに言った。—ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。—
3 ダビデはギブオン人たちに言った。「あなたがたのために、私は何をしなければならないのか。私が何を償ったら、あなたがたは主のゆずりの地を祝福できるのか。」
4 ギブオン人たちは彼に言った。「私たちとサウル、およびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また私たちがイスラエルのうちで、人を殺すことでもありません。」そこでダビデが言った。「それでは私があなたがたに何をしたらよいと言うのか。」
5 彼らは王に言った。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを滅ぼしてイスラエルの領土のどこにも、おらせないようにたくらんだ者、
6 その者の子ども七人を、私たちに引き渡してください。私たちは、主に選ばれたサウルのギブアで、主のために、彼らをさらし者にします。」王は言った。「引き渡そう。」

ダビデからすれば交渉大成功ですね!普通に考えれば、サウルが何人殺したかは分かりませんが、その行為のために関係ない子供や孫が7人も殺されるというのは、モーセ五書のどの律法でも正当化することはできないもので、権力を使った虐殺です。でもダビデは「飢饉を止める必要がある」という状況を利用して、政治的に好都合な取引を承諾します。ギブオン人のイスラエルの王に対する不満も幾らかは消えると共に、将来自分の子供にとって王位のライバルとなり得る人たちを葬り去ります。

7 しかし王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンとの間で主に誓った誓いのためであった。

最初に取り上げた箇所でダビデに祝福されたメフィボシェテです。脚が悪い彼は王位の脅威にはならないでしょう。弱者へ寄り添うという恵みに富んだ姿勢も、結局は政治利用に過ぎなかったのです。

8 王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、
9 彼らをギブオン人の手に渡した。それで彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人はいっしょに殺された。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ、死刑に処せられた。
10 アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。

簡単に言えば、サウルの息子でありヨナタンの異母兄弟である2人と、サウルの孫でありヨナタンの甥にあたる5人が殺されます。しかし、その後のリツパという名の女性の行動が聖書に乗ってることが凄いです!ダビデは自分の政治的都合の為に7人を殺しましたが、飢饉を止める為の施策という面を強調し、もっとストーリーを変えてその7人を国を飢饉から救ったヒーローとして描く神話も描けたはずですが、聖書はそうしません。

彼らがダビデの都合によって殺され、死体が無残な形で晒物されたことを記し、誰が読んでも「完全に王の都合でスケープゴートにされた」ことが分かる形で記され、またそれによって大切な息子たちを失った母親の無念と、息子たちの最後の尊厳を命懸けで守る母親の愛の姿に読者の目を向けているのです。古代宗教の考え方では、捧げられた者の命は国の為、王の為に尊いですが、そこに生じる理不尽さや無念の感情などどうでも良いことなのです。でも聖書はそうではないのです。「彼らの命はどうでもよくない」と言って、人間の宗教的・供犠的行為の醜さを晒すのが聖書なのです。

11 サウルのそばめアヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。
12 すると、ダビデは行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから取って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで殺した日に、ペリシテ人が彼らをさらしたベテ・シャンの広場から、彼らが盗んで行ったものであった。
13 ダビデがサウルの骨とその子ヨナタンの骨をそこから携えて上ると、人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。
14 こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。

ダビデ王はこのリツパさんの行為に恥をかかされました。実は、サウルとヨナタンの骨は、ペリシテ人との戦争で戦死して以来放置されたままになってて、晒されたのをヤベシュ・ギルデアという場所に移されていました。ダビデはそれを取り戻して、今回の件で殺された7人の骨も集め、全員きちんと葬ってあげました。

ここで気付いて欲しいのは、最終的に飢饉が収まったのは、ちゃんと骨を集めてサウルとヨナタンを埋葬してからでした。聖書、特に旧約聖書は、古代宗教のように、神から何かの恩寵を受けるために血の生贄を捧げるという等価交換の経済で成り立っていると勘違いする人がいます。それは全く違います!ここでも、ダビデが不純な動機から「生贄」の形をとって7人の男性を殺害しても、飢饉は止まなかったのです。聖書が語る神は、そんなことで動かされる神ではないのです。

さて、ダビデ王が自分の死後の後継者争いなどを考え、サウル一族を絶ち滅ぼそうという思いがあり、それを「合法的」にする機会が訪れた、といった観点で話を読み直しました。今度は、全く別の観点から、このストーリーをもう一度考え直したいです。3度目は読みませんが、代わりに別の箇所を読みたいと思います。それは、イエスキリストの十字架のシーンですが、ダビデとギブオン人の話しと照らし合わせて考えてみたいと思います。

生贄を求めているのは誰!?

次のことを考えてみましょう。生贄を必要としているのは誰ですか?それは人間です。弱者側の人間、権利を蔑ろにされ蹂躙された人たちを生贄にすることで、強者同士の争いを回避し平和を維持します。生贄を提供するのは誰でしょう?権力側、この場合は王です。つまり、神は直接には全く関わっていません。生贄を捧げる人間にとって「神」は、自分たちの生贄による虐殺を正当化するための道具なのです。しかし聖書は、そのような神像を描くことに、微かではありますが、抗議しているのです。それは、ダビデの生贄に応えて飢饉を鎮めたのではなく、ダビデが殺された者たちの尊厳を顧みて丁寧な埋葬を行ってからだったのです。

では、イエスの実際の処刑に至るまでのシーンを見てみましょう。ヨハネ18:28-19:16のシーンですが、長いので抜粋しながら進めます。

18:29-31そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」

ここはピラトとユダヤ人との交渉です。ユダヤ人は自分たちの宗教を守るのに邪魔なイエスという存在がいて、ピラトはローマ皇帝から委ねられている任地で面倒なことが起こってほしくないのです。ピラトはこの後イエスと少し話してから(この部分も非常に面白いですが長さの関係で省略します)、再びユダヤ人指導者たちを話し、彼らの不満を取り除く形でイエスを鞭打ち、そして解放するように努めます。

19:4-6ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」

しかしユダヤ人の不満は収まりません。ピラトはさらに粘りますが、遂に折れて、イエスを死刑にされるために引き渡します。

19:12-16こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

9:13に出て来る「ガバタ」は実際にはアラム語です。語幹は「ギブオン」と同じで、著者ヨハネはこのシーンでIIサムエル記21章のギブオン人の話を想起させている可能性が指摘されています。ピラトとダビデは、交渉における状況は少し違いますが、似た部分もあります。自分たちに直接敵対している訳ではないが、不満を持って怒っている人たちがいます。その怒りをなだめないと、その人たちだけでなく国全体に悪影響が及ぶかもしれません。ダビデの方が政治的な意図でサウルの子孫を殺す動機が強かったでしょうが、ピラトもダビデも、危機を回避するために捧げる生贄は、自分の子ではなく、他人の子だったのです。他人の子を与え「お前たちで処刑して怒りを鎮めてくれ」というのは共通しています。

ですから、聖書がイエスを「なだめの供え物」として語る時(ローマ3:25、Iヨハネ2:2)、私たちはその「なだめ」を神様の怒りをなだめるものとして理解してはいけません。どう考えても、聖書の中にある実際の物語の流れを見ても、鎮めるべき怒りを持っているのは人間なのです。福音書のどこにも、神が人間に対して怒っていて、その怒りをなだめるためにイエスが捧げられなければならない、などとは書いていませんしそんな概念すら拾えません。イエスの十字架は、人間の怒りをなだめるために、神がご自身を捧げたものなのです。

誰が誰を捧げる?

ローマ8:31-32を取り上げます。

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ダビデはギブオン人に敵対していないことを示す為に、他の人の子供を与えました。彼にとっても都合が良かったです。ピラトはダビデよりはイエスをユダヤ人指導者たちに引き渡すのを渋りましたが、彼らとの平和を維持するために最後は折れました。結局他人の子であれば、自分にとっては痛くないのです。

でも、神は自分にとって痛くない赤の他人を与えたのではなく、自分自身を与えたのです。「よって、神様も私たちと敵対関係にあるのではない、とっくに和解しているのだ」ということをパウロはローマ8章や2コリント5章などで語っているのです。自分たちの恨みや憎しみを解消するために生贄を要求するという悍ましいことをするのは、神ではなく人間なのです。そして、イエスにおいては、その要求を何と神が承諾し、自らその生贄となって下さったのです。しかし、イエスは復活することによって、人間のそのような生贄は欺瞞であって何の効果もないことを示されました。

人間は自分たちの問題を解決し和解するために生贄を必要とします。スケープゴートをもうけて、その人を殺すことで互いに和解し、神話でそのストーリーを伝えながら、自分たちが築いてきた秩序を維持します。でも神様は、自分自身を与えることで私たちの怒りをなだめて和解を図るだけでなく、私たちが今後そうやって人をスケープゴートにしたり生贄・人柱にするような供犠的な社会形成からの解放を用意して下さったのです。イエスの復活によって、殺したスケープゴートが無実だったことが分かります。つまり、そのやり方自体が間違いであり、罪であるということです。

人を犠牲にするのではなく、社会の中で犠牲にされている人たちの声を拾い、彼らのために正義を求めるような神の国の生き方に神様は招いてくれています。日々自分の身を捧げながら、そして私たちの周りで犠牲にされている人たちの姿を通して「これは間違ってるんだ!」と日々私たちに向かって呼び掛けているのではないでしょうか。私たちは、その呼び掛けにどう答えていくのか、それが一人一人んクリスチャンに問われているのではないでしょうか。

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