神の招き―エリヤとエリシャ其の2

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「宗教」と「福音」のせめぎ合い

今回も「エリヤとエリシャ」のテーマを続けます。前回は、エリヤとエリシャが異邦人にも手を伸ばして神の祝福を届けたということ、またそれが神の本来の願いであり、最初からアブラハムに与えた召命とも合致するものであったということにも触れました。イスラエルは本来神の祝福をすべての国民に届ける「祭司的」な民だったのに、いつしかそれを忘れて、自分たちが特別に救われて祝福されている神のお気に入りだと勘違いし、敵対する民族は呪われていて汚れているもので、神に完全に立ち滅ぼされても文句言えない人たち、という思いが、この王国の時代にどんどん強くなっていきます。

聖書の大半は、そのような排他的で独善で来な「宗教」と「いや、違う、神は本当に全世界の神なんだ、民族に関わらずすべての人を愛してすべての人を神の宴会へと招いておられるんだ!」という包含的な「福音」のせめぎ合いです。それは創世記から黙示録までずっと見ることができますし、まさにこのシリーズ全体を通して強調したいポイントです。

今フォーカスしている「王国の衰退」という聖書の歴史的状況においても、他の国々とイスラエルは戦い続けながら皮肉にもイスラエル自体が分裂して互いに争っている。その中で「他の民族は皆敵だ、滅びてしまえ」という考えの中に「いや、神は他の民族も祝福する」という考えも浮かんで見えるところがあります。

イエスの時代になると、イスラエルがローマ帝国に支配され、少し前にはギリシャに支配されてイスラエルの文化も宗教もギリシャ文化によって侵食されつつありました。その中でも、やはり排他的なユダヤ教思想が強くなっていきます。その中でイエスは「それはダメ!それは違う!そのような考え方では国が滅びる!」という危機感に満ちたメッセージと共に「このように新しい生き方をしよう、悔い改めよう」と言って「神の国」のあり方への扉を開きました。しかし人々はそれを気に入らず、結局イエスを十字架にかけて殺しました。そのイエスのメッセージは、他の使徒たちにも引き継がれ、今私たちにも引き継がれています。

前回は、エリヤとエリシャがイスラエルの預言者として活動しながらも、異邦人にも神の祝福を届けたということに着目し、また新約聖書ではイエスがそれを大いに肯定したことも確認しました。では、イエスはエリヤやエリシャのしたことをすべて肯定したのでしょうか?今回はその視点で考えたいと思います。

過激派エリヤ

この前は、エリヤがシドン人の女性の息子を生き返らせた話を見ましたが、今日はエリヤを有名人にしているもう一つの話(こっちの方が有名かもしれない)を見ていきたいと思います。今日は皆さんに過激派エリヤと出会っていただきます!

エリヤは、長い間雨が降らないことを預言してからイスラエルを離れています。エリヤ不在の間に、アハブ王の妻イゼベルは、ヤハウェの預言者達を捕らえて多数殺害します。3年後にエリヤはアハブの前に再び現れて、アハブが未だにヤハウェではなくバアルの神に礼拝していることで彼を咎め、バールの預言者たちと決闘を挑みます。そのシーンがこちらになります。

1列王記18:17-40

 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」
エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として戦っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神。その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あながたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇あたりを、踊り回った。
 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているかもしれないから、起こしたらよかろう。」
 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ」と命じた。ついで「それを二度せよ」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は「三度せよ」と言ったので、彼らは三度そうした。水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。
 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。

非常に過激ですね!聖書では一貫してヤハウェを唯一の神として礼拝することを求めていて、他の神々に対する礼拝は偶像崇拝として厳しい罪とされています。それを正そうとするエリヤの情熱に感銘を受けることは良いことかもしれませんが、敵対する神々に仕える人たちを皆殺しにするエリヤの行為は、ヤハウェに相応しいのでしょうか?このことが教会で疑問視されたり話し合われることはあまりないように思います。ここのテキストでは、バアルの預言者殺害に関しては「神の命令」だとは一言も描かれていません。

さて、この話についてイエスが新約聖書で触れてはいませんが、エリヤの別の「過激派」的行為についてイエスが触れている部分があります。まずは、そのエリヤの行為について読みましょう。

2列王記1:1-17

 アハブの死後、モアブがイスラエルにそむいた。さて、アハズヤはサマリヤにある彼の屋上の部屋の欄干から落ちて病気になった。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病気が直るかどうか、伺いを立てなさい」と命じた。
 そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主はこう仰せられる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」それで、エリヤは出て行った。
 使者たちがアハズヤのもとに戻って来ると、彼は、「なぜあなたがたがは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。彼らは答えた。「ひとりの人が私たちに会いに上って来て、こう言いました。『あなたがたを遣わした王のところに帰って行き、彼に告げなさい。主はこう仰せられる。あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
 アハズヤは彼らに尋ねた。「あなたがたに会いに上って来て、そんなことをあなたがたに告げた者は、どんな様子をしていたか。」彼らが、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした。」と答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。
 そこで、アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂にすわっていた。彼はエリヤに、「神の人よ。王のお告げです。降りて来てください」と言った。
 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。
 王はまた、もうひとりの五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼はエリヤに答えて言った。「神の人よ。王がこう申しております。急いで降りて来てください。」
 エリヤは彼らに答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。
 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。」
 主の使いがエリヤに、「彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼といっしょに王のところに下って行き、王に言った。「主はこう仰せられる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てにやったのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは、上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
 王はエリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。

これまた過激派エリヤですね。ここでも、火を下して人々を焼き殺すことを神が命じたとは書いていません。また3度目に、遣わされた五十人隊長が命乞いをした時、神はエリヤに「恐れてはならない」と言っています。ということは、エリヤは恐れから100人を殺したとも考えられます。バアルの預言者を皆殺しにしたことも含め、殺すことによって自分のヤハウェへの一途な信仰を示そうとしてのは、彼の心の中の恐れの部分だったのかもしれません。

イエスの応答

さて、これに似たような話が福音書にあります。それを読んでみましょう。

ルカ9:51-56

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして一行は別の村に行った。

これは、エリシャの先ほどの話と同じ舞台のサマリヤで起きたことです。そこでイエスを受け入れなかった人に対して、ヤコブとヨハネ兄弟がイエスに「被を呼び下して焼き滅ぼしましょうか」と提案し、イエスはそれを静かに却下します・・・というのは、今のほとんどの現代聖書訳に載っているバージョンですが、これには「異本・異読」も存在します。

異本・異読について説明しますと、今私たちが読んでいる聖書は、オリジナルの聖書が何度も手書きで書き写されて新しい写本が作製され、それが繰り返されていくうちに、写し間違いや漏れ、または意図的なつけ足したり改竄が多々あります。ですから、近現代まで残された聖書の写本には、何十万という違いがあるのです。それを精査し、よりオリジナルに近いだろうと思われる読みを今の現代訳に採用しているのです(オリジナルはもはや存在しません)。ですから、翻訳者によって、どの異読を採用すべきかは見解が分かれることも多々あります。

このルカ9:51-56の箇所も、大きく異なる異読があります。それがほとんどの聖書に乗っていないということは、後世の加筆だと多くの専門家が判断しているからかもしれませんが、調べてみると、その異読が載っている写本も多数あるのです。その異読は以下のような日本語になります。

弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。主よ、エリヤがしたように、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして彼らに言われた「あなた方は自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです。

この異読はなぜ日本語聖書では、新改訳の脚注にはありますが、ほぼ触れられていません。。文脈を見ると、元々あったものが省かれたと考える方がしっくり来ると私は思います。

つまり、ヨハネヤコブ兄弟は、単に旧約に出て来る偉大な預言者エリヤがした通りのことをしたかっただけですたが、イエスは「お前たちはどんな霊的状態かを分かっていない」と言うのです。怒りに任せて焼き滅ぼすというエリヤの「過激性」をイエスはきっぱりと否定します。イエスが言う「霊的状態」とは、エリヤの話にあった「恐れ」かもしれません。ヤハウェを他のすべての神にまさる唯一神だということをイエスは勿論肯定したでしょうが、異教の人々を火で滅ぼすことはしませんでした。イエスはギリシャ文化がものすごく浸透していた地域にいながら、旧約聖書で言う「偶像崇拝」に対して何も言っていない、ということを考えたことがあるでしょうか?他の神々を拝むことが、死に値するほどの酷いこと、ヤハウェの唯一神への礼拝を、人を殺してまで守らないといけないこと、というスタンスは持っていませんでした。

イエスは、人に憐れみを示すこと、悔い改めて神の国の生き方に変わること、それこそが神が望む礼拝だと教えました。また別の「サマリヤ」の話では、神を礼拝するのはエルサレムでもサマリヤでもないと言いました(ヨハネ4章)。「この宗教」「この神の名前」「この礼拝の仕方」という拘りは、イエスは全く見せていないということです。

エリシャ

では、エリシャはどうでしょうか?エリシャも気に入らない人を面白い方法で死なせたことがあります。エリヤは火専門であれば、エリシャは熊専門です!非常に滑稽で短い話ですが、取り上げます。

2列王記2:23-24

エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町の小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」と言ったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。

恐ろしいですが笑ってしまうようなお話です。エリヤの件で、イエスはそのような暴力性はすでに否定されていることは示せたと思いますので、今度は別の話を用いて、暴力性とはまた別の要素に焦点を当てます。この前のナアマンの癒しの話を見ましたが、その話には実は続きがあるのです。一人の隣国のお偉い将軍さんが病気から癒されましたが、その後にまた別の人がその病気にかかってしまうのです。読みましょう。

2列王記5:15-27

 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにおいても神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
 神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った。
 そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」
 エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った。
 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」
 ゲハジはナアマンのあとを追って行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から降りて、彼を迎え、「何か変わったことでも」と尋ねた。
 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」
 するとナアマンは、「どうぞ。思い切ってニタラントを取ってください」と言って、しきりに勧め、二つの袋に入れた銀ニタラントと、晴れ着二着を、自分のふたりの若い者に渡した。それで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。
 ゲハジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。
 彼が家に入って主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」
 エリシャは彼に言った。「あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。ナアマンのツァラアトは、いつまでもあなたとあなたの子孫にまといつく。」彼はツァラアトに冒され、雪のようになって、エリシャの前から出て来た。

この話をご存知だったでしょうか?エリシャもまあまあ過激ですね。ケハジも、欲に目が眩んで、本来受け取るべきでなかったものを嘘をついて受け取っていますので、悪いヤツだと言えるでしょう。少しのお仕置きぐらいがちょうどいいかもしれません。しかし預言者エリシャは、ケハジにナアマンが持っていたツァラアトの病気を押し付けます。しかも彼だけでなく彼の子孫にまで!

イエスの応答

さてこれについてイエスは何と言うでしょうか?イエスは罪が原因で病気が起こることを肯定するでしょうか?

ヨハネ9:1-3

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

この後の続きは割愛しますが、イエスは盲人を癒して、それから物理的な「盲目」と、イエスが啓示しようとしている神の国が見えない心の「盲目」について、パリサイ人とこの癒された男性、そしてイエスなどの間で非常に興味深い対話がなされます。また別の機会に取り上げたいと思います。

ここでイエスがはっきりと示されたのは、「人が病気になったり障害を持つのは、その人や家族の罪ゆえではない」ということです。先々週のシーズン2のオープニングでも、寝床に寝かされたままイエスのもとに連れてこられた人に対して「あなたの罪は赦された」とイエスが言った話を見ました。神は罪を赦されるお方であり、罪に対して病で報いるようなお方ではないのです。イエスが「父なる神」と呼んだ全世界の造り主は、人の過ちに対して罰を与えて苦しませるようなお方ではないのです。神は喜んで罪を赦す方、そして喜んで病を癒す方です。

エリヤとエリシャはイスラエルの偉大な預言者として知られています。彼らがイスラエルの国境を越えて神の癒しと祝福を運んだことは、神の御心にかなうこととして、イエスもその話を用いて同時代の人たちの考え方にチャレンジしていきました。神の恵みはすべての人に及ぶと説いたイエスの後を継ぎ、弟子たちもときどき転んだり躓いたりしながらも伝えていきました。それがないと「異邦人」の私たちがクリスチャンになることもあり得なかったでしょう。

しかしエリヤとエリシャの暴力性については肯定しませんでした。自分たちとは異なる宗教や礼拝の仕方をする人を殺すような態度をイエスが取ったという記述はおろか、周りに当然あった異教の偶像崇拝を非難したという記述も福音書には一切ありません。

またエリシャが、自分のものではない報酬をくすねたことで「お前もお前の子孫も一生ツァラアトにかかる」と言ったことにも賛成しません。病気はそのようにして罪から来るのではないし、神が罰として病や苦しみを与える方でもないということを説きました。寧ろ、神はすべての苦しみと病から癒して救ってくださる神、そして罪からも癒して立ち直らせて下さる神だと示しました。

そのような恵みと憐みに満ちた神様に、イエスキリストがご自分の命を捧げてまで教え伝えた真の神に、私たちも日々寄りすがっていきたいものです。

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