ケン・フォーセット
前編では、贖罪論とは何か、そして歴史上どのような思想が語られてきたかを概観として簡潔に示した。後編では、贖罪論の中でも多くの教会で当然のように語られる「刑罰代償説」に注目し、その問題点を取り上げたい。そうすることで「贖罪論」の見直しとそれに関連する議論の要点が明確になることが期待される。
目次
(前編はこちら)
後編
▶5.狭義の「贖罪論」
▶6.刑罰代償説の主張
▶7.刑罰代償説の問題点
教義的な問題/聖書的な問題/論理的な問題/倫理的な問題
▶8.今後の歩み
5.狭義の「贖罪論」
現代における贖罪論の議論で必ず中心となるのが「刑罰代償説」である。「贖罪論」と言うときに刑罰代償説以外を全く視野に入れていないクリスチャンも多い。つまり、「刑罰代償説」が狭義の「贖罪論」として認識されている実態があると言えるだろう。
これは、刑罰代償説が教える教理内容を肯定するクリスチャン、批判的に見るクリスチャンの双方に見られる。一部のクリスチャンが「贖罪論は間違っている」「贖罪論を考え直すべきだ」と言うとき、イエスの死と復活によって人類が救われたということを否定している訳ではない。後に詳述する刑罰代償説の贖罪理解を問題視し、キリストの十字架と人類の救済を繋げるための新たな説明を求めているのである。
逆に、刑罰代償説の内容を全面的に肯定し、この特定の贖罪論を福音およびキリスト教信仰とイコールだと捉えているクリスチャンにとっては、刑罰代償説の否定をキリスト教そのものの否定だと受け取ってしまう。しかし歴史的に見ても刑罰代償説が唱えられるようになったのはここ500年ほどのことである。16世紀以前のキリスト教で、キリストの十字架を神による刑罰だと捉えるような神学は全く提唱されていない。解釈によってはそう読めるかもしれない文章がいくつかあるが、神が我々の身代わりにイエスを罰したと明言するものは一切ない。
当然、後の時代に提唱されたものが誤っているとは限らないが、それを受け入れなければキリスト教信仰の否定になるという考えは、著しい時代錯誤である。前編でも述べたが、キリスト教信仰の宣言として一致しているのは、キリストの苦難と死によって人間の罪が赦され、神との和解が達成され、救いが与えられたということである。それがどのように起きたか、どう理解すべきかについては、2000年間豊富な議論が行われてきたし、これからも続いていくものである。
6.刑罰代償説の主張
日本のプロテスタント福音主義な教会では、長らく刑罰代償説が贖罪論の中心的な位置を占めてきたのは既に述べた通りだ。例えば、大学などでの伝道で知られるキャンパス・クルセード・フォー・クライストが伝道で用いた「四つの法則」も、刑罰代償説を基礎とした「福音」の説明である。「四つの法則」( 本文は本稿末尾のリンクを参照) では、まず①神が愛をもって、一人ひとりのための計画を用意して人間を創造されたと教える。しかし、②人間が罪を犯しがために、本来神と持つべき交わりができず、神との関係が断裂した状態だと言う。我々一人ひとりの罪行為もそうだが、全人類の祖先であるアダムの罪によって人々と神の関係に亀裂が入ったとされる。根拠としてローマ6:23を載せているが、「罪から来る報酬は死(神との霊的な断絶)です」という形で、聖書の言葉に自説に寄せるための解説を括弧付きで挿入している(聖書の言葉そのままでは福音を語れないのだろうか!?)。
③その断裂された状態の解決として唯一用意された道が、イエスの身代わりの死である。「本来私たちが、自分の罪のために受けるべき死の刑罰を、イエスが、十字架上で身代わりに受けてくださったのです」とCCC日本は説明している。さらに④その用意された道への応答として、我々一人ひとりが個人的にイエス・キリストを救い主として、そして人生の導き手として受け入れる必要がある。そうすることで、永遠の命が与えられるというのである。
このように、刑罰代償説を中心とした福音理解は、キリストの贖罪だけでなく、罪や神と人間の関係性の問題、さらには「死」などの言葉の定義にまで独特の主張を展開している。これは聖書の読み方、解釈の手法に関する議論にも繋がっていく。
次に刑罰代償説の問題点を挙げるが、刑罰代償説の根幹となるのは、神が聖なる方、義なる方であり、人に罪に対して怒りを積もらせているということである。その怒りをなだめるためには、生贄が必要となる。本来罪を犯した人間一人ひとりがその生贄となるべきところを、イエスが身代わりに生贄となって下さったがために、そのイエスに信頼を置く人は神の裁きを免れることができるというものである。
7.刑罰代償説の問題点
刑罰代償説が説く「福音」を受け入れる人は、キリストの十字架の刑罰がその人のための代償として効力を発揮し、罪の赦しと永遠の命が与えられる。しかしそれを受け入れなければ、神の怒りを自分の身に受ける必要があり、その結果は永遠の滅びとされる。しかしこのような「福音」理解には多数の問題点と弊害がある。
東方教会で刑罰代償説が受け入れられていない大きな理由は、そもそも三位一体などの伝統的なキリスト教義と整合性が取れないという見方が強いからだと考えられる。また聖書の記述との矛盾や不一致、そして刑罰代償説の根拠となる聖書箇所の乏しさや、根拠として挙げられる箇所も結論ありきの解釈がなされていることも問題視されている。また論理的な破綻、さらには人間社会のあり方にも影響を及ぼす倫理的な問題を理由に、刑罰代償説は到底容認できないと考える人も少なくない。
①教義的な問題
刑罰代償説では、父なる神が子なる神を罰することで、人間の罪によって損なわれた神の義が回復されたと説く。しかし、伝統的なキリスト教教義では、神は三位一体であり、父と子は「同じ性質」とされる。よって、イエスの磔刑の場面で、父なる神が怒りを降り注ぎ、子なる神がその怒りを一身に受けて苦しむという構図は、三位一体の断裂を意味する。また、何度も神の愛と憐れみの性質が聖書の中で語られているにもかかわらず、神が罪を罰せずにはおられない、刑罰なしでは許せないとする考えは、神がご自身以外の力や原則に支配されていることを示唆し、もはや「神」と呼ぶこともできない、という指摘もある。
②聖書的な問題
聖書には、神がイエスを罰したという記述は一切ない。イエスが生贄として死なれたと解釈できる記述はあるが、使徒の働きでの使徒ペテロの2度の演説でも、イエスを殺したのは罪人であり、イエスを死から復活させたのが神だと言っている(2:23-24、3:14-15)。また使徒の働きでは使徒たちが広範囲にわたって宣教活動をしている様子が描かれているが、「福音」を伝える中で「刑罰代償説」のようなものを伝えた形跡は一切見られない。刑罰代償説の聖書的根拠としてよく取り上げられるのがイザヤ53章の「苦難のしもべ」の歌だが、この歌の本文に関する歴史は非常に複雑で、現代の旧約聖書訳の底本となっているマソラ本文と、新約聖書著者たちが使用したLXX(「七十人訳」とも呼ばれるギリシャ語訳の旧約聖書)、さらにイエスの時代よりも前に翻訳されたアラム語のタルグムでも、内容が大きく異なる。また前述の「四つの法則」で、聖書にある「死」という言葉を「神との霊的な断絶」と説明するなど、議論の余地が大いにある定義付けを当然のことのように固定した説明が多々ある。
③論理的な問題
キリストが我々の罪の身代わりになって神の怒りを受けたことで、我々は救われると言われるが、我々が何から救われるのか?キリストの身代わりの死がなければ、永遠の滅びという結末が待っているとされるが、それから救われるのだとしたら、十字架の死は「身代わり」と言えるだろうか?「罪から来る報酬は死」(ローマ3:24)がよく引用され、罪の本来の結果は神からの永遠の断絶と地獄だと説明されるが、ならばイエスが人類の身代わりとなるには、神と永遠に断絶された地獄へ行くことが求められるのではないだろうか?また、刑罰代償説で強調される神の「義」は、懲罰を必須とする法的な概念で理解されるが、預言書などでは、「義」は弱者に対する憐れみと公正な扱いであることが強調される。懲罰を必要とする「義」の概念が崩れれば、キリストが代償として刑罰を受ける必要性が崩れてしまう。
④倫理的な問題
そして、おそらく刑罰代償説に反対する最も強い動機となるのが倫理的な側面だ。愛であるはずの神が、怒りをなだめるために自身の子であるイエスに拷問的な刑罰を与えることが必要だという考えは、多くのクリスチャンにとって良心的に受け入れられないものである。肯定派は「神の義と聖さを理解していないから」と反論するが、そのような暴虐的な神像に反対するのは「あなたの敵を愛せよ」「憐れむものは幸いです」などと教えたイエスの言葉が心に深く突き刺さっているからに他ならない。聖書全体、そして特にイエスの教えに見られる倫理と刑罰代償説は両立不可能だと考える人が多い。躾けの悪い子供にDV行為をするような父像を忌避するのは、寧ろキリスト者として当然だと言えるのではないだろうか。また聖書には無実の者を罰して罪あるものを見逃すことも強く非難している(イザヤ5:23など)。「神の義と聖さ」がこのような暴虐的な救済論を「キリスト教の福音」と同一視することを要求するのであれば、「最も優れているのは愛です」(Iコリント13:13)や「愛は隣人に害を与えない」(ローマ10:13)などの言葉はどうなるのか?「愛」の概念も刑罰代償説が教える「神の義と聖さ」に跪いて捻じ曲げる必要があるのだろうか?それよりも「神の義と聖さ」に関してより健全で包括的な理解を追求するべきである。
8.今後の歩み
我々が『イクトゥス・ラボ』を通して贖罪論の見直しをしていくと述べているのは、端的に言うと、それは「刑罰代償説」の否定である。二本に分けた今回の投稿では、歴史を通して語られてきたそれぞれの贖罪論、そしてその中でも特に議論の中心となっている刑罰代償説の問題点などを短く紹介した。各ポイントの細かい要点、聖書的根拠、反証材料などを全て網羅できてはいないが、それは今後の課題だと認識している。聖書や教会史、神学史、世界史、日本と世界の諸々の社会問題などをさらに深く学び、前編で列挙した贖罪論の要素を取り入れつつ、堂々と人々に語れる健全かつ力強い贖罪理解を構築していきたい。そしてキリスト教信仰者としての「健全な贖罪論」を目指した会話の扉を開いていきたい。
参考資料
J. D. Myers, The Atonement of God, 2017, Redeeming Press.
Greg Boyd, Crucifixion of the Warrior God, 2017, Fortress Pr.
Brian Zahnd, “Who Killed Jesus?” https://brianzahnd.com/2016/03/who-killed-jesus/
日本CCC「四つの法則」 https://www.japanccc.org/4sl/
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